浜松のパワースポット
昨日は浜松市中区元城町の、O邸敷地の石積み擁壁のクラック(ひび割れ)調査を実施しました。
この擁壁は石積みの目地にモルタルを詰める工法で、土管の水抜きが用いられていましたが、築造後80数年という経年劣化で数箇所にクラックが発生していました。今後 指摘箇所は樹脂モルタルを注入するなどして補修していくことになります。これが戦国・江戸期の空目地の穴太積みだったらこの程度の高さなら大丈夫だったのではないかと想像してしまいましたが、築造当時は石積み職人も少なかっただろうし難しいことですね。
そしてこの 浜松市中心部に位置するとは思えないほどの緑豊かな古城(引間城)跡の一角に建つO邸。その敷地の一隅には、近年 浜松のパワースポットとしても知られるようになった日限地蔵堂があります。
この堂内に祀られる地蔵尊は、江戸時代の文政年間(1818〜1830年)、浜松宿 田町で呉服商 笠井屋(現・複合商業施設 笠井屋ビル)を営んでいたO家が店舗を建て替える際、地中から掘り出された二体の石仏だそうです。
その後 ずっと店で祀られていたのですが、明治6年の廃城令による土地の払い下げを受け、古城跡の一角の土地を取得し住宅を建て、そこに地蔵尊を移されたとのことです。
当時から日限地蔵に対する信仰は厚く、さらに太平洋戦争中の1945年6月18日、浜松市中心部は米軍の空爆や艦砲射撃の戦禍に見廻われましたが、地蔵堂の周囲には一発の焼夷弾も砲弾も落ちず、ここに避難していた市民は全員助かったと言われ、年月を経てそうしたことが人伝えに語り継がれ、元城の日限地蔵として今日に至っているとのことです。
なお、「日限」ですので、日を限って祈願すると願いが叶えられると言われています。
また、このO邸敷地や日限地蔵堂周辺も含まれる古城(引間城)跡には元城東照宮もあります。境内には若き日々を浜松で過ごし、その後 天下人となった徳川家康公と豊臣秀吉公の像が並立し、ここも浜松のパワースポットとなっています。ぜひここにも訪れてみてはいかがでしょうか。この日も数人の方々が訪れていました。自動車で来る場合は、東照宮 西側の国道152号を挟んだ反対側に浜松城公園の駐車場がありますので、野面積み石垣の浜松城や浜松市美術館と合わせて訪れるのも良いかもしれません。

【日限地蔵尊前の切通し】
この切通しの先に元城東照宮があります。

【日限地蔵堂】
O邸敷地の一隅に建てられている日限地蔵堂。
戦国時代、右側の道の先は大きな水堀があり、古城の東側の防御を固め、左側の道の先は古城の玄黙口に繋がり、徳川家康公が三方原の戦いに敗れ、逃げ帰ってきた城門がありました。現在その周辺は同じ読みの元目町となっています。
【日限地蔵堂 手水舎】当初は奥の壁面の窪み補修跡の所に石仏が祀られていましたが、横に地蔵堂が造られ地蔵尊は堂内に移設されたとのことです。
【日限地蔵堂 堂内】引き戸は施錠されておらず内部を観ることが出来ます。
【位置図】
これは現代の地図と江戸時代初期の浜松城を照らし合わせた地図です。右上の古城(引間城)の一角にO邸と日限地蔵堂が立地することを示しています。

【元城東照宮 鳥居】
前面の切通しから鳥居をくぐり、左脇の手水舎を経て階段を上った先が社殿です。

【元城東照宮 社殿】
社殿は明治19年に建立されましたが戦火で焼失。鳥居だけは残りましたが、戦後新たに権現造り様式の社殿が建立されました。

【徳川家康公像と豊臣秀吉公像】
徳川家康公 没後400年にあたる2015年の記念事業で建立されました。両像間に「出世の街 浜松」と彫られた立ち台石がありますので、そこに立ち、記念撮影が出来ます。
ここになぜ豊臣秀吉公が? と思われる方がいるかもしれませんが、戦国時代この地にあった引間(曳馬)城を居城としていた今川氏直臣の飯尾(いのう)氏、その飯尾氏の家臣・松下加兵衛の屋敷が頭陀寺(ずだじ)(現・浜松市南区頭陀寺町)にあり、少年時代の秀吉は下働きとして雇われ、機転が利くので納戸役にまで出世しました。その間に秀吉は松下加兵衛に付き従い、この引間城に通ったかもしれないということです。
ちなみにこの松下加兵衛、人の縁というものは計り知れないもので、のちに豊臣秀吉公が天下人となると、旧恩に報いるためにと遠江 久野(現・袋井市久能)に領地を与えられるという格別の計らいを受けます。その後 息子の代に移封となり他家が二代引き継ぎましたが、久野城は1644年に廃城となります。その後は放置され茶畑などに利用されていましたが、このブログにたびたび出てくれる友人K君の所属する久野城址保存会の皆さんにより、43年前から整備され大切に守られています。