建築確認申請の歴史
梅雨が明け夏本番、お盆も近くなってきたので
前々回のブログで紹介させていただいた古い図面や書類の虫干しを行いました。どうもこの時期、こんなことをしていると懐古的思考になってしまいます。そして、また今回も添付画像がセピア色で恐縮です。
この中には我が家の旧宅の建築確認通知書類も含まれています。26年前、父が亡くなった後の整理で、タンスの引き出しの中から出てきた物です。昭和31年に建築確認申請されたもので、当時の書式や添付図面など、今ではなかなか見られない物だと思いますので、ご覧いただけたらと思います。
確認通知書、第一面の施工者氏名欄は大工だった父方の祖父になっています。当時新婚だった父母のために新居を建てたということは想像出来ますが、申請図面も祖父が描いたものではないのか?今となっては、もうそれを知るすべはありません。
そこで気になったのが、建築確認申請はいつから必要になったのか?ということです。
調べたら当然と言えば当然ですが、建築基準法が施行された昭和25年からでした。
それ以前は何もなかったかと言えばそんなことはなく、古くは710年に制定された大宝律令に私邸を建てるに当たっての規制に始まり、奈良時代には家格によって敷地の規模や塀・屋根材の制限があったようです。
江戸時代には、各藩ごとに家格による建屋や門塀に対する決め事があり、特に江戸の町では大火災が発生するたびに防火に対する御触書が発布され、防火帯となり得る道路の拡幅、火除地の設置、町屋の屋根の土塗りや3階建ての禁止などの規制がありました。また、防火に役立つ屋根の瓦葺きも当初は火災時の崩落により大惨事があり禁止されていましたが、後に桟瓦が開発され瓦葺きや壁の土塗りが奨励されるようになったとのことです。
明治時代になると、西洋の制度を採り入れ従来の制度を大転換し、大正時代には市街地建築物法などが制定されました。
そして建築基準法が施行された昭和25年、当初の確認申請ですが用途地域では4種類(住居地域・商業地域・準工業地域・工業地域)であり、現在の13種類に遠く及びません。
ただそれ以外では確認通知書第一面を見ると、私が設計事務所に就職した昭和54年当時と比べ、B5版サイズの大きさも書き込み内容もほとんど変わっていませんし、この書式は平成5年のA4版化に伴い変更されるまで、ずっと同じ書式で続いていたということに少々驚きました。

【建築確認通知書 第一面】
静岡県袋井土木事務所への申請となっています。なお、住所地番と建築主事名は伏せさせていただきました。
空地比の欄が興味を引きます、建ぺい率の逆でしょうか。それに坪面積・尺寸法や申請手数料500円が時代を感じさせます。

【申請図面】
尺寸法で表された平面図・配置図・見取図(案内図)
袋井土木事務所で押された赤い印判には
「界壁には柱3ッ割以上の筋違を入れ小屋組には火打梁等を入れること。床高は1尺5寸以上とし、それ以下の時は床下に防湿コンクリート打とすること」
「都市計画区域内においては道路の中心線より水平区間2米の線を道路境界線とし、建築物(庇、門、または塀)はこの線より突出してはいけない」
「・・・火気を用いる部分の周囲は不燃材で被覆しなければならない」
と書かれています。
見取図(案内図)を見ますと、お寺・郵便局・公民館・町役場の表示がありますが、今ではお寺以外 は移転して場所が変わっています。これも時代の流れを感じさせます。ちなみに町役場の木造庁舎は移転建替えに伴い解体移築され、祖父の工務店の作業場兼資材倉庫として使われていました。