浜松城の復元CG動画 視聴
2021年 04月 10日
浜松城の変遷
7日のことですが、テレビニュースで「このほど浜松市はコンピューターグラフィックス(CG)で新たに制作した浜松城の動画と復元図を公表しました」との報道と共に、CG動画が放映されました。私も早速その紹介されたサイトの動画を視聴してみましたが、地方ニュースだったので、地元静岡の方しかご存じないかもしれませんので紹介させていただきたいと思います。
その復元CG動画は、徳川家康がこの地を浜松と名付け、浜松城を築城した1570年代の城郭と、豊臣秀吉の重臣である堀尾吉晴が、その浜松城を大規模改修をした1590年代の城郭で、二代の城郭の変遷を連続して観ることのできる内容でした。
徳川家康による1570年代の城郭は、武田軍の侵攻に備え引間(曳馬)城の南西の丘陵地を拡張整備、堀と土塁が取り囲む城郭で、建物の屋根はこけら葺きや板葺きの質素な造り。天守はなく城内の最高所の詰の丸に家康が居住したとされる館があったと想定されています。
その後、豊臣秀吉の命を受け、新たに浜松城主となった堀尾吉晴は豊臣政権の権威を示すため、東海道の要衝である浜松城を大規模改修し、本丸と天守曲輪は石垣で築き、新たに瓦葺きの四層天守を築城しました。
これは戦国時代の実戦的な要塞から安土桃山時代の華美な城郭への変遷を意味し、これまでは残された古絵図や発掘資料で想像するしかなかった当時の浜松城の城郭をCG動画により具体的に視認でき、興味深く視聴することができました。
こちら ↓ がCG動画サイトになります。
※浜松市より「上動画を含む はままつ動画チャンネルはリンクフリーです」との確認済みです。



南側より望む。左側が天守、右側が天守門です。
天守は昭和33年(1958年)に総工費1395万円(うち市民の寄付総額800万円)で再建されました。
天守台の大きさから想定すると天守は江戸時代の2/3程度に縮小されているとのことです。

天守曲輪の迫力ある野面積みの石垣。

これは現代の地図と江戸時代初期の浜松城を照らし合わせた地図です。浜松城は今川勢力下で整備された古城(引間城)を基にして、徳川家康による大規模な築城、豊臣政権下の堀尾良晴による石垣と瓦葺の城郭、江戸時代の譜代大名による三の丸整備と拡張され、東西600m南北650mの規模の近世城郭となりました。

案内板です。浜松城の成り立ちや三方原の戦いに向けた武田軍の侵攻ルートが表示されています。

天竜川(浜松市・磐田市)及び、太田川(磐田市・袋井市)水系が、長い年月をかけ創り出した扇状地や河岸段丘の様子がよく分かります。このカシミール3D画像に浜松城の位置を加えてみました。
広域地形で視ると、東に見通しのいい高台で、天竜川が天然の要害となる西側段丘崖の縁に浜松城を築城し、東側からの武田軍の侵攻に備えたという理由が理解できます。
しかし史実として、甲斐から駿河に行軍し、遠江を東から進軍して来た武田軍本隊は高天神城を攻略しさらに西進、一言坂の戦い(現・磐田市一言)を征し北進、北からの武田別動隊と合流し二俣城を攻略、その後浜松城から北方10kmほどの三方原を西に通り抜ける行軍を見せます。その情報を得た浜松城内では、重臣たちは見過ごし 籠城をと徳川家康に進言しますが、この時30歳 血気盛んな家康は城から出陣しての戦いを選びます。しかし何枚も上手の武田信玄は三方原の根洗ノ松 付近に本陣を置き、魚鱗の陣を構え 万全の隊形で徳川軍を待ち受け、合戦に勝利します。

陰影起伏図を重ね浜松城周辺の地形を表示した画像です。
※追記 2021年5月16日
昨日5月15日ですが、日本城郭協会理事長であり、浜松城公園歴史ゾーン整備専門委員会会長である小和田哲男さんのユーチューブチャンネルにおいて、以下のような発表がありました。
従来、徳川家康時代の浜松城には石垣はなく「土の城」とされてきました。ところが、城の石垣研究の第一人者 北垣聰一郎さんが『武田史研究』第63号に発表した論文「中世石積み技能者「穴太」の本貫地と、近世の「穴太」および、第36回全国城郭研究者セミナーで報告された伊藤俊二さんの「築城技術者の実態と系譜」の引用文献から、北垣さんは「家康時代の浜松城に石垣が積まれていた」というものです。
また、北垣さんは現在、浜松城址にみられる石垣に古い段階の積み方も見られるという指摘もされています。
これらについて小和田さんは、これまでの通説の見直しが必要になってきた。と話されています。
そして北垣さんが根拠にした『当代記』を紹介され、そこには信長の「異見」により、見付(現・磐田市見付)ではなく引馬城のところに浜松城を築くことになった。ここに信長からの石積み技術支援があったのではないかと推測されています。
これまで、新たな城を築く場所を当時、遠江の中心であり守護所の置かれていた見付ではなく、浜松に決めたのは家康自身だというのが通説でしたので、信長の進言によるものというのには驚きでしたが、この当時の信長と家康の主従関係に近い同盟からすれば、充分に考えられることだと思いました。
by team_baku
| 2021-04-10 09:26
| 所感・雑感
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