私もですが、浜松市以外に在住の方ですと「協働センターって何?」と思われるかもしれませんが、これは一般的に言う「公民館」のことです。浜松市では地域づくりの拠点として地域活動のサポートを行うという意味で、平成25年から「協働センター」または「ふれあいセンター」と呼称が変わったということです。そこでは多くの施設が、各種証明の発行などの窓口のある市民サービスセンターや図書館、体育館を併設しているようです。
昨日は南区から北区の協働センターを見て廻りましたが、北区では三方原協働センターに行くということで場所を確認していますと、以前紹介させていただいた某商業施設建設現場と同じ道路沿いに立地することが分かり、あまり通ったことのない道だったのでこの偶然に意外な思いがしました。しかもその道は昭和39年まで軽便鉄道奥山線だったということを知り、以前から興味のあった軽便鉄道奥山線を調べてみることにしました。
奥山線は遠鉄浜松駅(現・遠州病院駅)から三方原を北上して国鉄二俣線(現・天竜浜名湖鉄道)金指駅を経由し、引佐町(現・浜松市北区)の奥山駅を結んでいた路線で、軌間(線路幅員)が762mmという軽便鉄道です。
1914年(大正3年)に浜松軽便鉄道として元城~金指間が開業し、翌年には当初の起点となった板屋町に乗り入れ、同年に金指から気賀(後に気賀口)まで延伸し、1923年(大正12年)に奥山まで全線開通しました。
そして戦後、遠州鉄道と合併し遠州鉄道奥山線となり、1950年(昭和25年)に曳馬野まで電化され、曳馬野以北は機関車と併結運転をしていたとのことです。機関車はドイツコッペル社製で煙突が長く、形がらっきょうに似ているため「らっきょう軽便」と呼ばれ、沿線沿いの学校に通う生徒たちや、奥山方広寺への参拝客などが多く利用したようです。
しかし、戦後のバス・マイカー時代の到来により1964年(昭和39年)に全線が廃止されました。今ではほとんど形跡はありませんが、広沢にはレンガ積みのトンネルが残ったり、一部歩道として残っているところもあります。浜松城公園に近い場所なので歩いてみるのもいいかもしれません。

【正楽寺~追分区間】
※画像面上、右クリック又はタップにより拡大表示されます。

【追分~遠鉄浜松区間】
グーグルマップに赤線で奥山線の経路を書き込み、赤文字で駅名も加えてみました。北は正楽寺までで省略させていただきました。
駅名には以前、徳川家康に関連して紹介した
「銭取」や「小豆餅」があります。現在は遠鉄バス路線のバス停名で残っています。
【奥山線跡.1】昨日、助手席の車窓から撮影しました。
「銭取」(現・和合町交差点東側)付近 手前は車止めですが軽便鉄道の車輪をイメージしているようです。
「豊岡」ー「都田口」中間点(現・根洗町字東)付近。
【同上西側敷地】設計図作成と申請業務に関わった某大型商業施設の建設が行われ基礎工事まで完了しています。
※追記(7月24日)
今昔マップによる1919年(大正8年)当時の軽便鉄道奥山線(赤線)です。

【気賀~追分区間】
この草創期は「気賀」まで。
「奥山」まで全線開通するのは4年後の1923年(大正12年)のことです。
「祝田」から「気賀」沿線は地図記号によると水田が広がっていますが、今でもその風景は失われていません。

【追分~板屋町区間】
「連隊前」は現在の静岡大学浜松キャンパスの向いに当たりますが、大正期には「歩兵第六十七連隊(第十五師団)」が置かれていたことに由来します。
その「連隊前」から「都田口」沿線は地図記号では茶畑・針葉樹林・荒地が占めていることが分かります。
昭和30年から現在まで「住吉」近くに在住する弊社Oさんの話によりますと、昭和30年代は聖隷浜松病院が建てられたばかりで、周辺は茶畑が広がり製茶工場が3軒あったということです。

【連隊前~板屋町区間(拡大)】
この当時、1919年(大正8年)始発駅は「板屋町」となってます。
旧城下・宿場町と駅前を除けば、地図右側(東側)の扇状地には各集落が点在し水田が広がっていた様子がわかります。