古代から続く御殿の地
2021年 09月 14日
御殿(ごてん)の歴史

【御殿遺跡公園.1】



【中泉御殿.3】

【御殿遺跡公園.2】

【御殿遺跡公園.3】

【旧東海道地図】

【御殿バス停】

このところ磐田駅のすぐ南側にあるS病院に、母や自身の定期検診などで月に3回ペースで通院しているのですが、この病院の住所は磐田市中泉御殿○○番地となっています。
この磐田市の「御殿」という地名ですが、旧磐田市民の方は御存じの方が多い思いますが、合併前の旧福田町民にも馴染み深い地名だと思います。これは磐田駅と福田(旧福田町)を繋ぐ遠鉄バス路線に「御殿」というバス停があるからですが、私の高校時代から比べるとバス利用者も減り、馴染みが薄れているかもしれません。
そしてこの「御殿」という地名の由来ですが、徳川家康が天正15年(1587年)に中泉府八幡宮神主の秋鹿(あいか)氏から献上されたこの地に休憩・宿所「中泉御殿」(なかいずみ・ごてん)を建てたことによるものだそうです。
中泉御殿の1万坪に及ぶ敷地には周囲を水堀を巡らせ城塞化し、家康は近くの大池やその周辺で鷹狩を楽しむこともあったようです。天正18年(1590年)には豊臣秀吉の命で関東に国替えになりますが、中泉の地は在京賄料地として安堵され同御殿も廃止を免れました。その後、家康は本拠地となった江戸と大坂を結ぶ東海道のルートを中泉御殿を経由するようにし、上洛時や鷹狩の休憩・宿所としての使用だけでなく、関ヶ原の戦いでは同御殿から出陣、大阪冬の陣、夏の陣前にも軍議が開かれるなど軍事的にも活用されました。
江戸時代に入ると遠江の天領(直轄地)支配のため、中泉御殿の敷地内北東側に中泉代官所・陣屋が建てられ、その管轄範囲は遠江だけでなく、西は三河まで、北は信濃まで広範囲に及び、代官には伊奈忠次など有能な官僚が充てられたようです。伊奈忠次は在任当時の慶長9年(1604年)に氾濫を繰り返す太田川と原野谷川を和口村(現・磐田市和口)の東で合流させ、遠州灘まで真っすぐに通す河川改修を行いました。じつはこの河川改修で私の先祖は自宅の移転を余儀なくされ、現在も住んでいる小島村(現・磐田市東小島)に移転したと言い伝えられています。
そして時代を更にさか上りますが、この御殿の地は何度も発掘調査が行われ、弥生時代から生活が営まれた地であることも判明しています。また昭和53年(1978年)の発掘調査では、奈良時代の文字が書かれた木簡や土器が出土していること、古代の大規模な建物跡があること、遠江国分寺の中心線を真南に延長した位置にあたることなどから、奈良時代の都市計画に基づき遠江国府の役所が建てられていたものだと考えられています。

発掘調査後、調査区域の1/6ほどが御殿遺跡公園として整備されました。門柱の上に座るのは家康でしょうか。

【中泉御殿.1】
現在の敷地。コンビニ等が建てられ往時を偲ぶ風景はありません。

【中泉御殿.2】
発掘調査区域と各建物の配置。

発掘調査時の空撮写真。公園内の説明板からの画像。北を上にしたので文字が90°左回転しています。

奈良時代の建物の柱位置を示しています。

陣屋跡の説明板と軍兵稲荷道道標。

青色の線は旧東海道です。中泉御殿を経由するため見附宿西木戸から南に曲げられました。
赤色の四角は中泉御殿ですが、その南にある大池や周辺で徳川家康は鷹狩を楽しんだようです。
ちなみに赤色の線は旧姫街道です。見附から浜名湖の北側を経由して御油(豊川市)を結んでいました。

遠州鉄道バス 磐田ー福田線の御殿バス停です。郵便ポストがレトロです。

【中泉寺 山門】
中泉陣屋の裏門を貰い受け、山門として今でも残っています。
中泉寺の位置は【中泉御殿.2】の地図上で明示してあります。
by team_baku
| 2021-09-14 19:33
| 所感・雑感
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