続・旧赤松家記念館 見学
2021年 10月 03日
※前回記事の予告通り「青天を衝け」に若き赤松則良が登場しました。情報をいただきました旧赤松家記念館の係員の方に感謝です。
今回の放送では渋沢栄一が大隈重信や伊藤博文に「各省の壁を越えた改革をするための新局を設けてほしい」と提案。大隈も伊藤も同意して「改正掛」が新設されます。
渋沢栄一はその改正掛の長となり、静岡藩から優秀な人材を登用。その中に赤松則良や前島密や杉浦譲がいました。さっそく始められた改正掛会議で、赤松則良は丈量・度量衡統一の話し合いの場面では「正しい丈量、洋式の測量機器や三角測量法を用いての全国的な測量の実施」、これが統一単位(メートル)での測量になり、良質な生糸生産化の場面では「製糸工場の建設は養蚕の盛んな場所に。質を上げるには西洋の工場を参考にするのが一番」と提言。これが煉瓦造建築の富岡製糸場になるわけですね。
そして前島の「日本の郵便の父になるっ!」に呼応し、赤松は「造船の父になるっ!」と宣言。この前島密も磐田に所縁があり、直前まで中泉奉行を務めていました。今では磐田駅南口に胸像が設置され、その業績を称えています。
赤松則良と森鴎外
『さびしい駅の構外でようやく見つけた二台の人力車、祖母を先にして私はあとにつづく。ここは三河平野につづく遠江の国、わずかに起伏する丘の間に田畑がはてしなくひろげられる。中泉の町を離れてしばしが程はその間を縫う街道、それにはところどころに松並木の名残りをとどめ、彼方に火の見櫓の高く聳えるところははや見付町であった。こちらも土山と同じく東海道五十三次の一つの宿でありながら明治になって主なる交通路からとり残された処なのである』
『見付の町をはずれる頃には日はまったく暮れて、桑畑の間を行くほこりの多い道が二つの車の提灯の鈍い光に照らされるほか、一帯にほの白く見えるのは白雲に掩われた空の一隅から、折々下弦の月の淡い光が洩れるのである。私達の車は見付町から二町余り離れた畑中、広く土塀で囲った重々しい屋敷門の前に止まった』
この文章は、森鴎外の長男である森 於菟(もり おと)によって書かれた小説「父親としての森鴎外」の中の一節で、十数年前に旧赤松家記念館を訪れた際にいただいた、A4版コピー3枚の中から一部抜粋したものです。抒情的に書かれた文章に惹かれ、紹介したく思い転記させていただきました。
著者である森 於菟が、明治41年(1908年)4月6日、18歳の時、父方祖母の峰子(森鴎外の母)に連れられ、中泉駅(現・磐田駅)から母方の祖父母の住む見付まで生まれて初めて訪ねて来た時の様子です。森鷗外と妻・登志子(赤松則良の長女)の間に生まれた於菟ですが、生後まもなく両親は離婚したため、於菟は父方祖母・峰子により育てられ、その後生母は亡くなってしまったため、それまで母方の実家には行けなかったという事情によります。
この時、第一高等学校生で春休みだった於菟は、祖母・峰子に連れられ東京から土山(現・滋賀県甲賀市土山町)の寺へ曾祖父母の墓参りに行き、その帰りに事前の連絡もしないまま赤松家を訪ねました。これは祖母・峰子が自身の死後、於菟が、父、継母、異母弟妹に伍して孤独になりはしないかと案じ、昔断たれた絆の糸をつなぎ合わせようと生母の実家に訪れたのではないかと於菟は回想しています。
その後、突然の訪問にも関わらず赤松家の祖父母や叔父に歓迎され、祖父であるこの時66歳の赤松則良は「よくおいででした。林太郎(森鴎外)さんもご出世で結構。あなたもお達者で」と祖母・峰子を迎え、於菟には「ここへ、ここへ」と呼び、片手を肩に乗せもう片手で手を取りいつまでも顔を見つめていたそうです。
そして、その夜は離れ家の二階に泊まり、翌朝には祖父の案内で広い邸内の見学をします。その時、於菟の目に邸宅はずいぶん頑丈に見えたようで、かつて海軍の造船術の権威として重んぜられた祖父は「私の造る家は皆、船だと人が笑うのでね」と言った。と回想しています。これも「日本造船の父」と言われた所以でしょうか。
また、他の資料では「この土地は地盤が強く洪水の恐れがないので選んだ」と書かれています。赤松則良はオランダ留学中、建築や土木も学んでおり、自邸の建設においても自ら主導して強固な地盤の敷地に、強度のある母屋や蔵などを建てたということが伺い知れます。
参考:磐田市教育委員会文化財課「旧赤松家記念館リーフレット」
森 於菟 著「父親としての森鴎外」の抜粋の写し

【赤松邸全景】 ※展示写真より
明治40年(1907年)頃の赤松家。二俣街道から望む。
今は大木になった門番所の前のまだ小さな楠が見えます。二俣街道から門前までの道の脇には茶畑が見え、手前の灌木は冬枯れの桑だと思われます。

大正4年(1915年)の中泉駅(現・磐田駅)。完成したばかりの2代目の駅舎です。

【今昔マップ】
大正6年と平成27年の比較地図。
森 於菟と祖母・峰子が人力車に乗り、中泉駅から見付の赤松家まで通ったと思われるルートを赤線で辿ってみました。
東海道は加茂川交差点から南に100mの地点で曲がりくねるのが分かります(〇箇所)。以前から磐田郵便局の入り口側の道路は斜めに接続され不自然だと感じていましたが、まさか旧東海道の取り残された道だったとは思いませんでした。

【旧東海道】
現在の国道一号線加茂川交差点から南に100mほど来た分岐点ですが、赤線方向が旧東海道です。200mほど迂回すると写真の直線道の先の磐田郵便局の前に戻ります。
この先の右側には奈良時代に建立された遠江国分寺跡があります。そして左側には同じく奈良時代から現代に続いている府八幡宮があります。


by team_baku
| 2021-10-03 19:50
| 建築見学
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