磐田市 旧見付学校 磐田文庫 見学
2021年 11月 03日
国の史跡 旧見付学校・磐田文庫
前回の旧赤松家記念館と同じく、今回見学をした旧見付学校もその名が表すとおり磐田市見付に立地しています。この見付の地は平安時代後期には遠江国府として、そして江戸時代には東海道の宿場町として発展し、教育にも力が注がれ幕末には多くの私塾がありました。
そのような経緯もあり、明治5年(1872年)の学制交付後の明治6年には見付学校が開校します。当初は見付の寺社を仮校舎としていましたが、西洋風の近代的な校舎を建築しようとする機運が高まり、淡海国玉神社神官の大久保忠利、区長兼学区取締・古澤修らを中心に町の有力者の協力によって資金調達がなされ、敷地は淡海国玉神社の境内地が寄贈され新校舎の建設が決定、校舎は名古屋の堂宮大工である伊藤平右衛門(後の9代目伊藤平左衛門)に設計施工を委託し、明治7年(1874年)10月に着工、翌年1月11日に上棟式を行い、8月7日に竣工しました。
新校舎は基壇石垣積みの上に木造擬洋風造で屋上に2層の楼が重ねられ2階建+塔屋2層、規模は間口12間(21.8m)奥行5間(9.1m)でした。正面には伊豆石の石段が設けられ、玄関はエンタシス様式に近似した飾り柱を配し左右対称の入り口が設けられています。基礎の玉石垣は遠州横須賀城の払い下げを受けたものです。隅石は楕円形の石の長短を交互に積む算木積みとなっています。
そして8年後の明治16年(1883年)8月には教室不足を解消するため、2階の天井裏だった部分を3階に改築し、3階建+塔屋2層の校舎となり、これが現在の姿となっています。
その後39年間使われた見付学校ですが、大正11年(1922年)3月に閉校し、小学校としての役割を終え、その後は見付中学校(現・磐田南高校)・柔道場・裁縫女学校・教員養成所・陸軍病院・磐田病院・郷土館などに使われていたとのことです。
この木造擬洋風建築の旧見付学校は、現存する日本最古の木造擬洋風小学校であり、隣接する磐田文庫と共に国の史跡に指定され、現在は資料館として館内1・2階は明治・大正期の教科書や教材などの教育資料や地域の歴史資料などが展示されている他、明治期の授業風景や教員室等も再現されています。再現された教室には教師と生徒の人形なども使われて臨場感のある展示であり、3階は郷土資料館のような展示で蓄音機やミシンといった生活用品から農機具に至るまで、さまざまな民俗資料が展示されています。
なお、見付学校は、見付高等小学校、見付第一尋常高等小学校、磐田町立見付国民学校などという変遷を経て、昭和23年(1948年)磐田市立磐田北小学校となりました。この磐田北小学校は旧見付学校の北東250mほどに位置し、卒業生には今夏の東京オリンピックの卓球で金メダルを獲得した水谷隼選手、伊藤美誠選手がいます。

【旧見付学校.1】
外観南面(正面)
白い漆喰壁と若草色の窓枠や破風の塗装が印象的です。基壇は玉石積み、外壁コーナー部は漆喰で石積みに見える工夫がなされています。

【旧見付学校.2】
昇降口ポーチ
14段の伊豆石の階段を上がり昇降口ポーチに至ります。柱は丸太を加工してエンタシス風に、軒天は木摺板を菱目に張っています。
玄関は左右対称に2箇所設け、男女別の入り口としていました。1879年の教育令では男女共学を否定し男女別学に基ずく教科の設定を掲げ、それは戦後1946年の国民学校令施行規則の改正まで続きました。

【旧見付学校.3】
外観北面
避難用の屋外階段も左右対称に造られています。手前、平成期に建てられた屋外トイレは違和感があります。
※館内及び展示物の撮影許可を得ています。

【旧見付学校.4】
開校時の見付学校の模型
当初は2階屋根(屋上)には手摺が巡らされ、塔屋1階の開口部から屋上に出られたようです。

【旧見付学校.5】
当初の校舎断面図
2階+塔屋2層となっています。

【旧見付学校.6】
開校から8年後に改修した校舎断面図
3階を増築しました。

【旧見付学校.7】
基壇の玉石の調達について
横須賀城(大須賀町 現・掛川市西大渕)の玉石垣を解体し、船で前川→坊僧川→今之浦川→中川を経由して運ばれました。石の数は1000個に及ぶそうです。

【旧見付学校.8】
教室
壁は漆喰塗 床は筋違張りとなっています。

【旧見付学校.9】
職員室
壁には全校生徒の名札らしきものが掛けられていました。

【旧見付学校.10】
木製の三角定規

【旧見付学校.11】
謄写版印刷機
当時はガリ版印刷と言われ、懐かしいものです。ロウ原紙に鉄筆で文字などを書き込み透かしを作り、その上にローラーでインクを浸透させ一枚ずつ印刷していました。

【旧見付学校.12】
昭和11年 日本楽器製造株式会社(当時の社名)製の足踏み式オルガン。当時から「YAMAHA」のブランド名が付けられていたのが分かります。

【旧見付学校.13】
資料室
明治から昭和期の子供たちの遊び道具などが展示されています。

【旧見付学校.14】
塔屋1階
校長室に使用されていた時期もあるそうです。

【旧見付学校.15】
塔屋2階
「伝酒井之太鼓」が置かれ、児童の登校合図と正午の時報として、また児童の指揮を高めるため毎日打ち鳴らされ、見付の生活の音として親しまれました。

【旧見付学校.16】
塔屋2階から南方向を望む。

【旧見付学校.17】
伝 酒井の太鼓
戦国時代、三方原の戦いに敗れた徳川家康は浜松城に逃げ帰りますが、武田軍は城の周囲に迫ってきます。この時、城を守っていた酒井忠次は急遽の策として城門を開き篝火を焚き、この太鼓を鳴らし威勢を示しました。追撃してきた武田軍は勇壮に響き渡る太鼓の音に徳川方の策略を感じ城を離れて行き、家康は窮地を逃れたと伝えられています。
そして明治になり板屋町(現・浜松市中区板屋町)に払い下げられていたこの太鼓ですが、明治7年浜松の祭りを見物していた見付の花屋吉三郎らが屋台に使われていたこの太鼓を見初め、交渉し買い入れて見付学校に置くこととしました。

【旧見付学校.18】
許可を得て階段の有効寸法を測ってみました。
1階~2階
幅1210 踏面235 蹴上235 15段
現在の建築基準法では小学校児童用としては 幅1400以上 踏面260以上 蹴上160以下となっています。

【旧見付学校.19】
2階~3階
幅970 踏面210 蹴上250 13段

【旧見付学校.20】
3階~塔屋1階
幅750 踏面190 蹴上250 10段 100上がり
2階床が100mm上がっている範囲は塔屋の柱を受ける部分の梁を補強したことによるものです。

【旧見付学校.21】
塔屋1階~塔屋2階
幅600 踏面120 蹴上180 15段

【旧見付学校.22】
旧見付学校の右には淡海国玉神社の鳥居が見え、神社の境内地に見付学校が建てられた様子が分かります。

【淡海国玉神社.1】
神門

【淡海国玉神社.2】
社殿
淡海国玉神社は遠江国の総社で大国主命を主祭神に他十六柱をお祀りしています。平安時代の貞観年間(759~877年)に創建されたと伝えられる延喜式内社です。

【淡海国玉神社.3】
狛兎
通常の神社であれば狛犬のいるべき場所に兎の像があります。大国主命に因むものだそうです。

【磐田文庫】
旧見付学校と共に国の史跡に指定されています。
旧見付学校の北側、淡海国玉神社の境内地西側に位置し、元治元年(1864年)神官の大久保忠尚により建てられたものです。
現在、南面外壁を補修中で枠組足場とシートが掛かっています。
