磐田市 三ケ野 七つ道
2021年 11月 16日
異なる時代の七つ道が集まる三ケ野

【三ケ野 七つ道】


【鎌倉の古道.1】

【鎌倉の古道.2】

【鎌倉の古道.3】

【鎌倉の古道.4】

【車井戸跡の碑等】

【三ケ野七つ道 案内板】

【江戸の道と大正の道の分岐点】

【昭和の道と平成の道】

【磐田原台地東端】


【大日堂.2】

【大日堂.3】

【大日堂.4】

【田原水車の里】
このところ地元・磐田市の名所旧跡を紹介させていただいていますが、今回は三ケ野(みかの)の紹介です。三ケ野は磐田市の東部で、太田川の造り出した肥沃な平野部と磐田原台地の東端にまたがり、古墳も造られ古代から人々の生活が続く地域です。
この三ケ野を通る東海道は、奈良時代から平城京と東国諸国を結ぶ交通路として主要な役割を果たしてきました。その後、鎌倉時代には幕府のある鎌倉と都である京を結ぶ街道としての重要性がさらに高まり、道中には宿場が形成されていきました。南北朝時代には宗良親王が北朝軍との戦いの中、その心境を三ケ野橋に託し歌を残したということです。
戦国時代には今川氏の領地でしたが徳川氏に移り、その徳川氏は武田氏の侵攻を受け、この三ケ野付近では御厨の医王寺が武田軍の侵攻により焼失したとの記録が残されています。
そして江戸時代に入ると東海道の整備がさらに進み、参勤交代の大名行列を始め、多くの旅人がこの三ケ野の道を往来しました。
ここで三ケ野 七つ道です。[ ]内はグーグルマップ上の表示色です。
① 鎌倉の古道ー[黄色]
② 江戸の道(東海道)ー[赤色]
③ 明治の道ー[青色]
④ 大正の道ー[緑色]
⑤ 昭和の道(国道1号)ー[茶色]
⑥ 平成の道(国道1号磐田バイパス)ー[橙色]
⑦ 質道(質屋通いの道)ー平成の道の北側を通るのですが、マップ上で判別できず省略させていただきました。
三ケ野はこの異なる時代に造られた七つの道が集まる場所で、全国的にもかなり珍しい地域になります。
※ 以下の各画像はパソコンの場合は画像上を左クリック、スマホの場合は画像上をタップ2回後ピンチアウトで拡大表示されます。

グーグルマップ上に七つ道を色別に表してみました。

【案内図】
三ケ野 七つ道、田原水車の里、鎌田山薬師堂(現・医王寺)を示す。

東側から大日堂のある高台への登り口です。

急坂な箇所は階段状に整備されています。

落ち葉を踏みしめ進みます。

高台近く、光が差してきました。直進すると江戸時代の東海道。右に曲がり階段を上ると大日堂。
往復したのでいい運動になりました。

江戸の道と明治の道が合流する地点に設けられています。
左から「車井戸之跡」の碑、「従是鎌田山薬師道」の道標、「秋葉山常夜灯」が建っています。
「車井戸」とは釣瓶井戸のことで、この地は高台なので水脈が深く各戸に井戸を堀ることが困難なので、この地に共同井戸を設けたとのことです。
「鎌田山薬師道」はこの地から2kmほど南の鎌田御厨(かまた みくりや)にある鎌田山薬師堂(現・医王寺)に通じる道のことです。医王寺には枯山水の庭(小堀遠州 作)があります。

江戸の道と鎌倉の古道の合流する地点に設けられています。

【江戸の道.1】高台から下る方向の地点。

【江戸の道.2】三ケ野から見付に向かう地点。

【江戸の道.3】



袋井方面から三ケ野橋を渡った地点。東海道の松並木が残っています。

直進するのは江戸時代の道で途中で山の中に左折します。車は通れません。。右に行くのが大正6年(1917年)に造られた大正の道です。明治の道は明治27年(1894年)に造られ、江戸の道左折地点を直進し高台へ繋がっています。

手前の松並木のある道は江戸時代の東海道。
奥の高架道路が平成2年(1990年)に完成した国道1号磐田バイパス。写真には写っていませんが、高架の下には昭和30年(1955年)に完成した国道1号が通っています。

この高台(標高38m)に大日堂が建立されました。裾野は古代の太田川の氾濫により浸食された形跡が見られます。

【大日堂.1】
高台(大日山の頂上)にある大日堂には大日如来が祀られています。戦国時代、元亀3年(1572年)上洛を目指す武田軍(信玄率いる主力軍)は甲斐を立ち駿河を経て、高天神城を攻略し遠江に軍を進めました。袋井の木原に陣を敷いた折、徳川軍はこの高台に偵察部隊を置き武田軍の動静を探りました。

この高台には狼煙台が設けられていたそうです。

境内東側には物見台用に60cm程の高さに道板が渡してあります。この道板に乗り「本多平八郎 物見の松」のごとく、松の間から袋井方面を覗いてみました。
本多平八郎忠勝は徳川四天王の一人として名を馳せ、戦国の世を駆け巡りました。

この蜜柑の木ですが徳川家康が駿府に植えた蜜柑の木の子孫だということです。ちょうど実が成っていて直径4cm程度の大きさでした。

三ケ野の南部に位置する田原地区。
江戸時代以前には太田川の支流が入り込んでいた田原ですが、慶長4年(1604年)関東代官であった伊奈忠次により太田川は原野谷川と合流させ南方向に直進する河川となりました。現在は小川が名残を留める程度で、その小川からポンプアップした水に依り水車が回されています。














by team_baku
| 2021-11-16 18:27
| 所感・雑感
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