紅葉に染まる竹の丸
前回のブログでは、龍尾神社へ参拝に訪れたことを紹介させていただきましたが、その後、掛川城 竹の丸と掛川古城跡にも訪れました。その日の竹の丸は、艶やかな振袖姿の娘さんとカメラマン、ご婦人の方々、お子さん連れのご家族などが見え、紅葉の時期だということで一月前に比べると訪問者が多かったように思います。
この「竹の丸」ですが、城郭の「本丸」「二の丸」などと同様「丸」と表されているように城を構成する曲輪(くるわ)を意味し、この「竹の丸」は掛川城の二の丸の北側に位置しています。
掛川城は守護大名であった今川家が室町時代から長く治めていましたが、戦国時代後期の永禄12年(1569年)に徳川家に移り、天正18年(1590年)豊臣秀吉の命により徳川家が関東に移封されると、新たに豊臣家臣の山内家が治めるようになります。城主となった山内一豊はそれまでの城郭の北側を拡張し、それが竹の丸の原型になったと伝えられています。
このように竹の丸は城の北側の守りの位置にあり、また天守や本丸等の城の中心部に通じる道筋に当たり、防衛上重要な場所であったことから江戸時代になっても歴代家老等、重臣の屋敷地に割り当てられていました。江戸時代には周辺が竹が繁殖していたので竹の丸と名付けられたとのことです。
その後、明治6年(1873年)の廃城令により竹の丸は民間に払い下げられ、明治36年(1903年)代々掛川城下で葛布問屋「松屋」を営んでいた松本義一郎が、竹の丸の敷地内に住宅を建築します。これは以前紹介した浜松城の古城曲輪の払下げを受け、住宅を建てた
呉服商「笠井屋」のO邸と同じケースです。
昭和11年(1936年)松本家が東京へ転居する際、竹の丸の邸宅は当時の掛川町に寄贈され、戦後は市の施設として長く利用されてきました。
平成19年(2007年)に市指定有形文化財に指定され、同年から修復工事を行い、明治・大正時代を偲ぶ姿で復元されました。本来なら「旧松本家住宅」ですが、掛川市では敷地全体の庭園も含め、城郭名を優先して「竹の丸」と命名したようです。
【竹の丸.1】
離れ2階廊下より掛川城天守を望む。
【竹の丸.2】 玄関前庭。
【竹の丸.3】 門と門前の庭。
【竹の丸.4】 門番所。
【竹の丸.5】 離れ1階座敷。北側1間を上段の間とし、左側が帳台構えに似た造り、中央が床の間を設け、右側が付け書院。通常は床脇なので、かなり独創的な造りです。
【竹の丸.6】 離れ1階座敷前庭。縁側の前には大きな沓脱石が据えられています。
【竹の丸.7】 主屋廊下。ガラス戸は大正期のガラスが残された箇所もあり外の景色がゆらゆらと見えます。
【竹の丸.8】 離れ座敷。南西角雨戸戸袋、雨戸用一筋敷居・鴨居。
【竹の丸.9】 離れ座敷。一筋鴨居に雨戸用の回転金具かあり、雨戸が90°回転して南面の開口部を覆います。旧赤松家の図書蔵にも使われていた工法です。
【竹の丸.10】
主屋1階座敷。この部屋では12年前から毎年将棋の王将戦が行われていました。現在では二の丸茶室に引き継がれています。
【竹の丸.11】
主屋1階台所上部小屋組み。
【竹の丸.12】小屋組みサンプル。
地元・掛川の飛鳥工務店が改修工事をした際、当時の木組みに感銘を受け、実物と同寸材による木組みを再現し見学者用に展示されています。
【竹の丸.13】 離れ1階廊下階段。階段を区画する額入り片引き戸があります。左側は階段下収納用の引違い戸です。
【竹の丸.14】離れ階段踊り場。踏面250 蹴上197 段数20 階高3940 当時は階高13尺として設計されたようです。2階に貴賓室があるので当時としては緩やかな勾配の階段を設けたのだと思われます。踊り場手前には収納棚があります。
【竹の丸.15】 離れ2階階段とトイレ。
階段の上がり側には自在丁番により外開き・内開き両用の開き戸があります。貴賓室があることにより設けられた区画扉やトイレだと思いますが、この時代に2階にトイレのあることはかなり珍しいことだったのではないかと思われます。
【竹の丸.16】 離れ2階座敷。残月風の床の間で3尺前に出た珍しい形の2帖床の間です。東側にも縁側をつけ眺望を楽しめるようになっています。
【竹の丸.17】 離れ2階貴賓室。
右側にはバルコニー付き掃き出し開口部、欄間にはオウムを模ったステンドグラス、左側には火灯窓、和と洋の意匠が混在する不思議な部屋です。
壁や襖は当時の松本家の取り扱い商品である葛布が用いられています。100年経過後も表面に糊や継ぎ目の浮きが出ず、熟練した表具師の仕事ではないかと想像します。こうやって見てきますと、離れは建築好きだったと思われる施主・松本義一郎氏の好みで旧習にとらわれず、色々、新しい試みが取り入れられたのではないかと想像できます。大工の棟梁も大変だったと思います。
【竹の丸.18】 離れ2階貴賓室。南側開口部から前庭を望む。
【竹の丸.19】 離れ2階廊下。前庭と天守を望む。
【竹の丸.20】 離れ2階廊下。天守を望む。
【竹の丸.21】 離れ2階貴賓室天井。巾60cm長さ5.4mの天竜杉板による敷目張。
【竹の丸.22】 書院前庭園。池底に玉石を敷き詰めた枯山水の庭。
【竹の丸.23】 離れ前庭園。離れ2階は大正末期から昭和初期にかけて増築されました。
【竹の丸.24】 離れ1階座敷。
【竹の丸.25】 北土蔵、西土蔵。
【竹の丸.26】 離れ 東面外観。雨戸が45°回転して可動します。
【竹の丸.27】 西土蔵 西側庭。西側と北側には戦国時代の築城当時からと思われる土塁跡が残っています。
【竹の丸.28】 西土蔵 西側庭。土塁より北側の県道415号(旧国道1号)を望む。
【竹の丸.29】 北側より竹の丸を望む。下段は石垣風に造られたコンクリート擁壁は高さ3m、その上の石垣が高さ1.5m、最上部に土塁が1mあり、合計5.5mの高低差があります。戦国から明治時代にかけては、最上部の土塁の勾配で下まで全て土塁だったと思われます。
【竹の丸.30】 竹の丸上部石垣。大正から昭和初期に施工されたと思われるモルタル目地工法の石積。
【竹の丸.31】
その後、竹の丸から南に100mほどの二の丸茶室に向かいました。
平成12年(2000年)、掛川城二の丸に建てられた一文字葺き屋根の伝統的な数寄屋造りの建物です。
【二の丸茶室.1】 日本国内でも有数な生産量を誇る「掛川茶」の煎茶や抹茶を楽しんだり茶会を開くことができる施設です。
来年1月9~10日に掛け、第71期王将戦 7番勝負の初戦、渡辺明 三冠(名人・王将・棋王)対 藤井聡太 四冠(竜王・王位・叡王・棋聖)の対局が行われる予定です。
【二の丸茶室.2】
二の丸茶室から天守を望む。
平成6年(1994年)に日本初の木造天守として復元されました。
次に竹の丸から東に200mほどの掛川古城跡に向かいました。
掛川古城は文明年間(1469~1487年)に守護大名・今川氏により築かれた元の掛川城です。永正10年(1513年)に掛川城は現在の位置に移りますが、その後、古城は出城として残りました。永禄12年(1569年)徳川家康が掛川城に籠城する今川氏真を攻めた際には、まず龍尾山の龍尾神社(当時・牛頭神社)を本陣とし、掛川城を包囲するよう各所に砦を築きます。その後龍胴山(子角山・ねずみやま)の掛川古城に本陣を移し、徐々に包囲網を狭められた氏真はついに降伏をします。
【掛川古城跡.1】 龍胴山(子角山・ねずみやま)を登る坂道。車で一気に登ることも出来ますが90°曲がる斜面があり、低床車の場合は歩いて登るのが無難かと思います。
【掛川古城跡.2】 北側土塁跡。下にはかすかに県道415号(旧国道1号)が見えます。
【掛川古城跡.3】 三代将軍 徳川家光を祀る龍華院大猷院霊屋です。
明暦2年(1656年)嗣子のない掛川城主・北条氏重が三代将軍 家光の霊を祀り、家の存続を願ったといわれる三間四方の方形造りの建築です。
現在の霊廟は掛川城主・太田資始により文政5年(1822年)再建されたもので、向拝柱や向拝虹梁、扉には金箔が貼られ荘厳な雰囲気を醸し出しています。