本田宗一郎ものづくり伝承館と信康廟と日本一の大黒天 見学
2021年 12月 11日
旧天竜市の名所と紅葉巡り

【田代家住宅.1】

【田代家住宅.2】

【本田宗一郎ものづくり伝承館.1】




【二俣諏訪神社.1】

【左側・井戸櫓】
二俣城で使われていた井戸櫓の場所を変え復元したもの。

【清龍寺.1】






【清龍寺.7】


【光明寺.2】

【光明寺.3】

【光明寺.4】

【光明寺.5】

【光明寺.6】
大黒殿。銅板葺き方形造りの本堂。

【光明寺.7】

先週末のことですが、友人K君から「二俣の田代家住宅の一般公開が今年最後みたいなんで行かない?」と連絡を受け、袋井市で合流し二俣(浜松市天竜区二俣)に向かいました。
田代家は江戸時代に天竜の北鹿島村の名主を務め、筏問屋として栄えた旧家です。田代家住宅は天竜川湖畔に建つ木造2階建、切妻屋根で安政6年(1859年)に建てられた国登録の有形文化財とのことです。
近くの駐車場に車を停め、冠木門をくぐり住宅に向かっていくと雨戸は締まり、手前の竹垣の入口には横に竹が渡してあり「あれっ?」と思ったら休館となっていました。一般公開は毎週土日ですが、この日は臨時休館だったのか?年末は休館となっているが12月4日は年末に入るのか? 疑問に思いつつ引き返しました。ということで田代家住宅には来年再び訪れたいと思います。

外観南面。
中央で外装が区分されているようです。通路の敷石は天竜川の玉石だと思われます。

昭和初期までは天竜川の上流は北遠州から南信州、下流は南遠州を繋ぐ重要な運送路になっていました。この案内板に出てくる遠州灘河口の掛塚(現・磐田市掛塚)は当時は大変栄えていました。掛塚にも旧廻船問屋の遠州屋や川口屋などの建物が残されています。
そしてせっかく天竜まで来たのだからと、地元天竜(当時・磐田郡光明村)出身の本田技研工業(通称・ホンダ)創業者・本田宗一郎氏に関わる展示施設に行ってみました。
本田宗一郎ものづくり伝承館の1階には、本田氏の業績や歴代のバイクが展示されていました。本田氏が原動機(エンジン)を初めて視た時から始まったものづくり精神を、来館した多くの人に伝えようとする施設のように感じました。2階では未来を担う若い世代が、ものづくり精神に触れる事ができるようなワークショップの様子が展示されていました。
この展示施設は地元の旧町役場を改修し、館名を伝承館とし、ボランティアの皆さんにより運営されていますが、このこと自体が郷土の偉人・本田宗一郎氏の人となりを表していると思いました。

外観南面。旧二俣町役場(昭和11年・1936年竣工)を展示施設に改修した木造二階建の建物で、国の登録有形文化財に指定されています。

【本田宗一郎ものづくり伝承館.2】
1階展示室。本田宗一郎氏の経歴や動画が紹介されています。

【本田宗一郎ものづくり伝承館.3】
1階展示室
手前展示車両は平成9年(1997年)製 ホンダNSR500
展示車両はホンダコレクションホール(ホンダ公式博物館)所有の車両を不定期ですが入れ替えしているとのことです。

【本田宗一郎ものづくり伝承館.4】
1階展示室
左側展示車両 昭和27年(1952年)製 ホンダ カブF型
右側展示車両 昭和33年(1958年)製 ホンダ スーパーカブC100
そしてこの本田宗一郎ものづくり伝承館の隣には二俣諏訪神社があります。

建立されたのは江戸時代以前と言われ、信州の諏訪湖畔にある諏訪神社から流れ着いた木の祠を祀ったのが起源とされています。
2本の杉の巨木が印象的です。

二俣城で使われていた井戸櫓の場所を変え復元したもの。
井戸水が出なかった二俣城では、天竜川沿いの断崖に井戸櫓を建て釣瓶で水を汲み上げていました。
元亀3年(1572年)西上作戦を続ける武田軍との戦いにおいて、二俣城を守る徳川方の城将・中根正照ら1200人は2ヶ月間攻撃に耐えますが、この井戸櫓を破壊されたことにより水を絶たれ降伏し開城します。そしてこの開城から3日後、天竜川を渡った武田軍と浜松城から出陣した徳川軍との間に三方原の戦いが起こります。
【右側・塩地蔵尊】
その名の通り塩が供えられているお地蔵様で、自分の体の治して欲しい部分とお地蔵様の同じ部分に塩を塗りお祈りすることにより御利益があるとされています。
この井戸櫓の前を左に行くと清龍寺へ登る参道になります。
清龍寺は天正9年(1581年)徳川家康により建立された浄土宗の寺で、家康の嫡男・松平信康の廟所があります。清龍寺は二俣城から北東500mほどの位置にあるのですが、戦国時代の天正7年(1579年)信康は父・家康の命で二俣城で自刃しました。
この自刃の理由に関してはご存じの方が多いと思いますが、武田方との内通を怪しんだ織田信長による指示説が有力だと従来から言われていました。しかし最近では戦国史に詳しい小和田哲男氏の研究により、「従来説は江戸期に記された『改正三河後風土記』に由来する説で、家康を神格化するための記述である。一方、徳川方の史料でも信頼性の高い『当代記』では判断は家康に任せるという内容で、実際は当時、岡崎の信康家臣団と浜松の家康家臣団の対立が背景にあり、それを収めようとした家康が苦汁の選択の末、自ら指示した可能性が高い」という新説も出てきています。どちらにしても戦国の世の悲しい出来事です。

山門。山門超しに大きなイチョウの木が視界に入ります。

【清龍寺.2】
家康手植えの蜜柑の子孫。以前のブログで紹介しました、三ケ野の大日堂に植えられた蜜柑の子孫も同じ大きさで、現代の蜜柑より小ぶりした。納得です。

【清龍寺.3】
本堂

【清龍寺.4】
信康廟への階段

【清龍寺.5】
信康廟への階段と紅葉

【清龍寺.6】
信康廟前門

信康廟。これより先、一般の見学者は入れないようになっています。
次に天竜区山東の光明寺に向かいました。
光明寺は養老元年(717年)に行基により開創された遠州の名刹で、日本一大きい大黒天の木像があります。

【光明寺.1】
こちらも紅葉が綺麗です。左右の石灯籠には「天下泰平」と「五穀豊穣」の文字が刻まれています。

境内への階段が続きます。

手水舎

光明殿。本尊の三満虚空蔵大菩薩は京都の法輪寺や伊勢の金剛証寺と共に日本三満虚空蔵菩薩とのことです。

四季桜。秋にも咲く桜だそうですが時期が遅く少し散ってしまったようです。

大黒殿。銅板葺き方形造りの本堂。

現在の大黒天は2代目で昭和12年(1937年)に一本の杉の木から仏師・岡田天孝により造られました。高さは2.3m(床からは4m)あり木造では日本一の高さで、胎内仏として日蓮上人作の三面大黒天が納められているということです。

【光明寺.8】
奥の院摩利支天堂。大黒殿の背後、光明山の山頂に建てられています。画像の上部に写る小さな建屋です。
摩利支天(まりしてん)は仏教の守護神で陽炎を神格化した神様で身を守ってくれ、勝利や開運の神として信仰されています。今回は諸般の事情で登らなかったのですが、麓から一直線に伸びる工事用リフトや仮設資材が見え改修工事中のようでした。この摩利支天堂からは天気のいい日には浜松市街地のみならず、遠州灘も見えるようです。もう一度訪れたい場所に加わりました。





















by team_baku
| 2021-12-11 09:30
| 所感・雑感
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