久野城を巡る歴史

久野城を守り伝える久野城址保存会

 東名高速道路を走行中、袋井ICから東に2.5kmほどの地点、北方向200mの小高い山の山頂に「久野城址」の看板を見かけた記憶のある方がいるかもしれません。それはまさしく、戦国時代から江戸時代初期まで存在した久野(くの)城址です。久野城址は袋井市の北東部の鷲巣に所在し、舌状に張り出した丘陵の先端(標高34m)を利用して築城された平山城です。

 一月ほど前、地元・袋井市在住で、久野城址保存会の会員でもある友人K君の案内で久野城址の見学に行ってきましたが、じつは今年の春にも訪れています。その時から気になっていた静岡県と袋井市の事業として進められている、太田川水系流域の治水プロジェクトの一つである久野城址南遊水地整備工事が、完成に近づいてきたということで、往時の外堀(水堀)が再現されているのではないかとの思いで見学に行きました。

 この久野城址周辺は大雨が降ると、これまでは道路や田畑が冠水することがよくあり、今回の遊水地整備により、冠水を防止する調整池を造る工事が行われている訳ですが、戦国時代には逆にこの地形や雨水を利用して、水堀や湿地帯を久野城の周囲に巡らせ防御網を築いていたということです。

 ここで久野城の歴史ですが、駿河を本拠にしていた今川氏配下の当地域の在地領主・久野宗隆によって明応年間(1492~1501年)に築城されたと考えられています。

 久野宗隆は今川氏に属し多くの戦功を立てますが、孫・宗能の代になると永禄11年(1568年)徳川氏の配下に移ります。天正18年(1590年)徳川氏の関東移封に伴い久野氏は下総佐倉に移ります。代わって豊臣家臣である松下之綱が入り嫡男・松下重綱と続きますが、慶長8年(1603年)再び久野氏が戻ります。そして元和5年(1619年)家康の甥である北条氏重に代わりますが、正保元年(1644年)に廃城となります。

 その後、300年余り経ても地元の方々の記憶は失われず、昭和の時代まで久野城址として親しまれていたそうです。しかし昭和52年(1977年)に宅地造成計画が持ち上がり、地元では城址を無くしてはいけないという機運が高まり、同年秋には「久野城址保存会」が発足し、城址を共通の財産として未来に伝えていこうと活動が始まり、城址の整備を行い、その成果が実を結び昭和54年(1979年)市指定文化財に認定されました。

 それから43年、保存会の方々により年数回のペースで草刈りや登坂道の補修を行われているそうです。以前は時季により、訪問者の方に「雑草だらけ」という感想を持たれたこともあったようですが、最近では年4回の草刈りにより、いつ来ても綺麗に整備された城址となっています。また、昨年からは不定期ですが、保存会の方々の城址整備費用の寄付の記念に作られた3色の幟旗が数十本立てられ、久野城址に彩りを添えています。
 

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 ※ グーグルマップ ストリートビューより
【久野城址.1】
東名高速道路 登り線、袋井ICから東に2.5km地点より久野城址を望む。遊水地の工事現場が確認できますので今年春先の撮影だと思われます。



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 ※グーグルマップより  
【久野城址.2】
久野城址周辺の航空画像。
水色枠内は水堀、茶色枠内は尾根を切り開いた大堀切を示し、城の周囲は堅く守られていたのがよく分かります。
※久野城見学案内図・城郭研究家 加藤理文氏 作図 参照

赤色枠内は現在工事の進められている久野城址南遊水地を示します。東側水路に接した上流側に越流堤を設け冠水を流入させ調整池としての役目をし、平時には下流側の排水門から排水します。




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【久野城址.3】
今年11月に新たに作り変えられた案内板。
久野城址保存会は令和2年には静岡県から「ふじのくに文化財保存・活用推進団体」に認定されたということです。



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【久野城址.4】
城地東側の大手橋左側の木は、姉妹提携30周年に伊那ライオンズクラブより贈られた高遠コヒガンザクラです。



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【久野城址.5】
大手。当時は櫓門がありましたが、北条氏重により掛川城北門に移築されたと伝えられています。



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【久野城址.6】
南の丸北。幟旗は寄付者の名入りで、久野城址の文字と共に久野家、松下家、北条家の歴代久野城主の家紋が印刷されています。
久野姓の名入り幟旗が続く中、友人K君の名もありました。



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【久野城址.7】
隅櫓跡。発掘調査で隅櫓の掘立柱跡が発見されています。



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【久野城址.8】
南の丸から高見(道の南側小高い所)に向かう道。



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【久野城址.9】
本丸下段。



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【久野城址.10】
高見から二の丸に向かう道。



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【久野城址.11】
西の丸から三の丸、虎口を経て本丸に上がる階段。



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【久野城址.12】
二の丸。



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【久野城址.13】
二の丸井戸。本丸の虎口にある井戸で今でも水が湧いています。



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【久野城址.14】
本丸。北側がやや高い地形を示しています。発掘調査から櫓台と虎口を埋め立て、曲輪の北側を削っていたことが確認され、北条氏時代に破壊行為があったと思われます。



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【久野城址.15】
本丸から東海道方向を望む。



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【久野城址.16】
本丸からエコパスタジアムを望む。画像の一番奥、小笠山の山裾にエコパスタジアムが見えます。左側の中ほどの水面の見える部分は湿地帯を利用したレンコン畑で収穫の最中でした。




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【久野城址.17】
南の丸より遊水地東側の工事現場を望む。(4月12日・撮影)



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【久野城址.18】
遊水地工事現場南側より遊水地及び久野城址を望む。(4月12日・撮影)




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【久野城址.19】
南の丸より遊水地を望む。(11月29日撮影)



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【久野城址.20】
遊水地西側より遊水地及び久野城址を望む。



 ここで歴代藩主が気になり調べてみました。

 久野氏は鎌倉時代から遠江国久野に居住したことに始まり、前述のとおり明応年間に宗隆の代に久野城を築城し、久野宗隆は今川氏に属し多くの戦功を立てますが、孫・宗能は永禄11年(1568年)徳川家康の配下に移ります。城主となって掛川城・高天神城攻撃や小牧長久手の戦いなどに戦功を立てます。
 天正18年(1590年)徳川氏の関東移封に伴い久野氏は下総佐倉に移ります。しかし跡を継いだ宗能の嫡子・宗朝が刃傷沙汰を起こし改易。隠居した宗能は再勤するこことなり関ヶ原の戦いの戦功で再び久野に戻ります。その後跡を継いだ宗能の孫・宗成は元和5年(1619年)紀伊徳川家の家老となり、伊勢国田丸を拝領し紀伊田丸領も併せ管理します。その後も七代に渡り紀伊徳川家の家老職を務め、明治維新を迎えます。


 松下之綱は以前のブログで紹介しましたが、松下加兵衛之綱であり、今川氏の直臣の飯尾氏の家臣として頭陀寺(現・浜松市南区頭陀寺町)に屋敷を持ち、そこには少年時代の豊臣秀吉が下働きとして仕えていたことで知られています。今川氏が滅亡すると徳川氏に仕えましたが、秀吉が長浜城主になると家臣として召し出されます。そして賤ケ岳の戦いや九州遠征に加わりますが、家康の関東移封により遠江久野の領地を秀吉から与えられます。秀吉は之綱に1万6千石の領地を与え旧恩に報いるといった思いもあったようです。
 しかし嫡男・重綱の代に江戸幕府に無許可で工事を行ったことを咎められ慶長8年(1603年)常陸小張(現・茨城県つくばみらい市)に移封となります。元和9年(1623年)には下野烏山(現・栃木県那須烏山市)に移封、寛永4年(1627年)二本松(現・福島県二本松市)に移封、直後、重綱が亡くなり嫡男・長綱が家督を継ぎますが、若年を理由に陸奥三春(福島県田村郡三春町)に移封。しかし寛永21年(1644年)乱心したとして改易となります。

 
 最後の久野城主、北条氏重ですが、母・多却が徳川家康の異父妹ということで、氏重は家康の甥にあたります。氏重は保科正直の四男として生まれ、18歳の時に北条氏勝の養子となり下総岩富を継ぎます。その後、5回もの移封を繰り返すことになります。
 慶長16年(1611年)下総岩富(現・千葉県佐倉市岩富)1万石
 慶長18年(1613年)下野富田(現・栃木県栃木市大平町)1万石
 元和 5年(1619年)遠江久野(現・静岡県袋井市鷲巣)1.6万石
 寛永17年(1640年)下総関宿(現・千葉県野田市)2万石
 正保 1年(1644年)駿河田中(現・静岡県藤枝市)2.5万石
 慶安 1年(1648年)遠江掛川(現・静岡県掛川市)3万石
 
 この間の寛永12年(1635年)からは参勤交代が武家諸法度により制度化されています。移封のたびに加増されているので喜ばしいことではあったと思いますが、それに伴う家臣やその家族の家財道具を含めた大移動は大変なことだったと思います。
 その氏重ですが、5人の子がすべて女子であったため嗣子がおらず、家の存続を願い徳川家光廟を建てますが、それも虚しく改易となります。
 しかし、四女が旗本・大岡忠高の正室となり、大岡忠相(おおおか ただすけ)を成します。テレビドラマ「大岡越前」で俳優・加藤剛さんが演じたと言えばご存じの方が多いかと思いますが、八代将軍・徳川吉宗の時代に南町奉行として活躍した人物です。



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by team_baku | 2021-12-17 20:05 | 所感・雑感 | Trackback(2)

チーム・バク一級建築士事務所の設計した建築のうち、公開可能な建築現場監理の内容や、建築見学の感想、日々の思いなどを綴らせていただいています。


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