姫街道 見付宿―池田の名所旧跡
2022年 03月 19日
今回は姫街道のうち、磐田市見付から天竜川東岸の池田までの道のり、約5kmの区間を紹介させていただきます。この区間は当初、池田近道と呼ばれていました。これは東海道が見付から一旦、中泉陣屋のある南に向かってから池田に行く遠回りのルートになっていたため、見付から直に西に向かう方が近道だったからです。
その池田近道も池田の渡しで天竜川を渡ると、浜名湖を迂回する本坂通である姫街道に通じることからいつの頃からか、池田近道も姫街道と呼ばれるようになったそうです。
なお、姫街道と呼ばれるようになった理由には諸説あり、女性の旅人が取り締まりの厳しい東海道の新居関所を避け、本坂通を選んだためとする説。古代から中世にかけて呼ばれていた古い街道という意味の「鄙(ひね)街道」が転訛し「姫街道」になったとする説。本街道である東海道に対して脇道的な存在で女道が姫道、そして姫街道と呼ばれるようになった説などが考えられるそうです。

【姫街道.1】
見付―池田区間の地図。
今回取り上げる名所旧跡の位置を記入しています。
※画像上で左クリックまたはタップで画像を拡大できます。

【姫街道.2】
姫街道 全区間の概略図。 ※出典:浜松市文化財課HP

【姫街道.3】
姫街道の起点。
姫街道は見付宿の西坂から直進(西)し、東海道は左(南)に折れます。

姫街道の標識。
「遠州見付宿 これより 姫街道 三州御油宿まで」と書かれています。

【西光寺.1】
西光寺 由緒案内板。
東福山・西光寺は姫街道の起点の南側、見付西坂に立地します。文永2年(1265年)創建、慶安元年(1648年)に三代将軍・徳川家光から御朱印地32石を与えられた古刹です。その家光の妹であり、二代将軍・徳川秀忠の五女・源 和子(みなもとのまさこ)が後水尾天皇の中宮として入内し東福門院と称され、後の明正天皇のご生母となられました。その和子がお嫁入りで江戸から上洛の途中、この西光寺に休息で寄られ、その際、ご自身の守り本尊として幼少期より持たれていた木像の地蔵菩薩立像と阿弥陀三尊立像、自らのお名前を冠した「東福山」の山号、及び七堂伽藍を献納された、という由緒があります。
同じ見付西坂の地には安元2年(1176年)平清盛の長男であり、遠江国守・平重盛により建立された光堂山・蓮光寺がありました。しかし明治44年(1911年)に西光寺の末寺となり、薬師如来坐像等が西光寺に移されました。この薬師如来坐像は遠江四十九薬師霊場第四十八番札所として、病気平癒を願う人々の信仰を受けています。

表門。
西光寺から南に1.8km、徳川家康の別荘であった中泉御殿の表門を移築したもので、総欅造りの薬医門です。

【西光寺.3】
鐘楼門。
寛政元年(1789年)建立。鐘楼の下をくぐり本堂に向かう珍しい配置です。

【西光寺.4】
大楠。
推定樹齢500年の楠の木。樹高18m、根周13.7m、幹周7.5mの大木です。

【西光寺.5】
大梛。
平安時代末期、伊豆に配流されていた源頼朝と北条政子が、伊豆山神社の梛(ナギ)の木の下で逢瀬を重ねたと言われています。そんな故事にちなみ、隣の大楠と共に縁結びのパワースポットとなっているようです。この日も数人の方が訪れていました。

兜塚古墳。
古墳時代の中期(5世紀)に造られ、墳丘は二段で直径80m・高さ8mの円墳です。静岡県内では最大、全国でも四番目の大きさで墳頂部から銅鏡や玉類、太刀が出土しています。

一言坂(ひとことざか)の戦跡の碑。
元亀3年(1572年)徳川軍は、西上作戦を続ける武田軍に三ケ野の戦いに敗れ退却中、この地で追いつかれます。徳川家康は近くの観音様に「戦いに勝たせてください」と一言だけ祈願したところ、戦いには敗れましたが、無事浜松城まで辿り着くことが出来たということで名付けられたと言われています。
その際、殿(しんがり)を務めた徳川四天王のひとり、本多平八郎忠勝は獅子奮迅の防戦をしたことで知られ、武田軍が落書した「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」との落書が、今でも言い伝えられています。
なおこの一言坂は、新生代第四紀後期更新世(約10万年前)に、古天竜川により形成された河岸段丘の東側段丘崖の縁に位置し、ここから坂を一気に下り池田方面に向かうことになります。

池田の渡し歴史風景館 外観。
一言坂の戦いで敗れ徳川軍が敗走した時、池田の船頭たちが舟で家康を天竜川西岸まで渡し徳川家康を助け、すぐに舟を隠し武田軍の追撃から逃れることが出来ました。のちに家康は池田村に対し朱印状を与え、天竜川下流域における渡舟権が確立したと伝えられています。

池田の渡し歴史風景館 内観。
池田の歴史や徳川家康直判の松板定文のレプリカが展示されていたり、当時の渡舟の風景がジオラマで再現されています。

池田の渡し公園。
池田の渡しがあった場所に造られた芝生公園で、せせらぎやウォ-キングコースも造られています。

池田の渡し跡の標識。

池田の渡し渡舟場。
ここから天竜川対岸の中ノ町村と行き来していました。渡舟場は3ヶ所あり、ここが上の渡し、下流に向かい、中の渡し、下の渡しがありました。

渡舟場から下流側(南)を望む。国道1号の天竜川橋が見えます。

渡舟場から上流側(北)を望む。東名高速道路の天竜川橋が見えます。

「遠州天竜池田渡舟之事」再現板。
天正元年(1573年)徳川家康による御朱印文書を木彫りで再現したものです。

明治16年(1883年)天竜川に架けられた木造の池田橋。長さ774m、巾2.7mで建設費は3,875円。有料橋で料金は大人三銭、子供二銭でした。
三菱UFJ信託銀行の資料によると、明治時代の一銭は現在の価値では200円だそうで、かなり高い通行料だったと感じます。同じ換算で建設費は7,750万円になります。そしてこの池田橋は、昭和8年(1933年)に鉄骨造の天竜川橋が完成するまで利用されました。






































by team_baku
| 2022-03-19 19:03
| 所感・雑感
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