前回ブログに引き続き、姫街道に纏わる旧跡である気賀関所を紹介させていただきます。
気賀関所は慶長6年(1601年)気賀宿の東口に設けられ、東海道の新居関所の裏番所として姫街道の往来を監視していました。新居や箱根の関所と共に、江戸警護の重要拠点として「入り鉄砲に出女」の監視を主に、旅人や荷物を厳しく調べていました。
以下の画像は、昨年の春に商業施設新築の申請に伴い、申請内容の事前協議で浜松市北区細江町の浜松北消防署へ行ったのですが、その際、近くの気賀関所に寄り道した際のものです。
【気賀関所.1】 関所東側(江戸側) この気賀関所は当時、気賀宿の東口にあったものですが、平成元年(1989年)に街の西側に移転復元されたものです。道の両脇に松を植え街道の雰囲気を出しています。
【気賀関所.2】
冠木門。
関所東側(江戸側)の門で東御門、大門とも呼ばれ、毎日明け六つに開門し、暮れ六つに閉門しました。
【気賀関所.3】
本番所。
本御番所、面御番所とも呼ばれ、番頭2名、平番4~5名が常勤しており、交代で通行の旅人やその荷物の取り調べを行っていました。
【気賀関所.4】
遠見番所。
遠方を見張るために建てられた見張り台で、当時上階には釣鐘が掛けてあり、下階には大砲が納められていました。
【気賀関所.5】
町木戸門。
関所西側(京側)の門で、これより先は気賀宿の町屋が広がっていました。
【気賀関所.6】
要害堀。
関所周囲には堀が巡らされ防御を図ると共に、舟で行き来する人も関所に入ることが出来るようになっていました。
【気賀関所.7】
姫様館 展示室。
「姫様道中」で使用している駕籠。
右側のガラスショーケース内の展示は、八代将軍・徳川吉宗の母・浄円院が細江宿に宿泊された時、紀州藩の家臣に出された料理を再現したもの。
※姫様道中とは、江戸時代に公家や大名の姫様が、姫街道を往来した様子を再現したお祭りです。毎年4月の第1土・日曜日に、浜松市北区細江町気賀で行われ、昭和27年(1952年)から続く伝統行事です。時代考証に基づいた豪華絢爛な衣装をまとったお姫様を始め、約100名の行列が気賀の街を歩きます。ボランティアでの参加も募っていて以前、友人T君の姉上も参加されていました。道中ではお姫様や腰元による手踊りや、男衆による奴振りが披露されます。
【姫街道.1】
姫街道が江戸時代に幕府御用道として注目されるようになったのは、宝永4年(1707年)の宝永大地震の時で、浜名湖口から新居宿一帯が津波の被害を受け東海道の通行が困難になったため、全ての旅人が姫街道を往来するようになりました。
以来、東海道が通行可能になっても姫街道の通行量が減らず、幕府は享保2年(1717年)に特段の理由がある場合を除き、大名や旗本が姫街道を通ることを禁止し、それ以降、大きな行列といえば宮家・公家・大名の夫人が通るのみの、静かな街道になったということです。