掛川城 天守 見学
2022年 03月 26日
一作日、車の定期点検のため静岡スバル掛川営業所まで行ったのですが、近くの掛川城の桜の開花状況はどうかなと思い寄ってみました。これまで掛川城には何度も訪れ、このブログにも二の丸美術館、二の丸茶室、竹の丸を紹介させていただいてきましたが、今回は天守と二の丸御殿の紹介をさせていただきます。
現在の掛川城天守は平成6年(1994年)、当時の市長の肝入りで生涯学習を通じた街づくり宣言の施策の推進中、篤志家Sさんの5億円もの寄付、市民や地元企業など合わせて総額10億円の寄付により、国内初となる本格木造天守として140年ぶりに復元されました。
掛川城は、嘉永7年(1854年)、安政の大地震により大半が損壊し、再建されることなく明治維新を迎え、天守は石垣のみ残し廃城となりました。そして天守を復元するにあたり、絵図面や参考になる資料がなかったため、戦国当時、掛川城主だった山内一豊が、関ケ原の合戦後に掛川から土佐に移封され、高知城天守を建築するに際し「遠州掛川之通」との考えを示し築城されていたことから、逆に現存天守である高知城天守を参考に、現在の掛川城天守の構造や形が復元されました。
天守は、外観3層、内部4階から成り、6間×5間(10.9m×9.1m)の天守本体に入り口に付櫓を設けてあり、木造による建築面積209.00㎡、延床面積304.96㎡、最高高さ16.18m、軒高7.88mとなっています。
ここで気になったのは最高高さ16.18mです。建築基準法21条では高さが13メートルを超える建築物について耐火基準などの安全基準を満たすことを求めています。ということで建築基準法の適用除外を受けているものと思っていましたが、調べてみると適用除外は受けていないと分かりました。これは「掛川城復元調査報告書」掛川市教育委員会編纂の207ページに及ぶ報告書に書かれていることですが、建築基準法施行令第2条6項による適用を受けているとのことです。
内容としては、「階段室、昇降機塔、装飾塔、物見塔、屋窓その他これらに類する建築物の屋上部分の水平投影面積の合計が、当該建築物の建築面積の1/8以内の場合においては、その部分の高さは、12mまでは、当該建築物の高さに算入しない」という条文です。掛川城天守はこの規定を受けているとのことです。
天守の入口に設けられた付櫓があることで建築面積が増え、最上階の床面積が建築面積の1/8以内となっています。計算上でも最上階は5m四方なので25.00㎡、建築面積は209.00㎡なので見事に1/8以下に収まっています。このことにより実質4階建ての掛川城天守ですが、建築基準法上では地上2階建・塔屋(物見台)2階建となるわけです。これにより法令上は高さ13メートル未満の建築物となっています。
そして、掛川城の成り立ちですが、戦国時代の明応6年(1497年)から文亀元年(1501年)の間に、駿河の守護大名・今川氏が遠江支配の拠点として重臣・朝比奈泰煕に現在の掛川城より東に500mほどのところに掛川古城を築かせたと言われています。その後、遠江における今川氏の勢力拡大に伴い、掛川古城では手狭となり、永正9年(1512年)から10年頃に現在の地に掛川城が築かれました。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦で今川義元が織田信長に討たれると、永禄11年(1568年)義元の嫡男・氏真は甲斐の武田氏に駿河を追われ、掛川城に立てこもりました。翌年、遠江の領有権を得ていた徳川家康は掛川城を攻めましたが、掛川城代の朝比奈泰朝に加え、氏真の妻の実家である北条氏の援軍が海路掛川城に入り、容易に墜ちません。そのため半年にも及ぶ攻防の末、和睦により開城させました。家康領有後、重臣・石川家成が入城し、武田氏侵攻に対する防御の拠点となりました。
天正18年(1590年)全国平定を達成した豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移すと、家康の旧領地に秀吉配下の大名を配置し、掛川城には山内一豊が入りました。一豊は城の拡張や城下の整備を行うとともに、掛川城に初めて天守を造りました。そしてその天守が現代に本格木造として復元され、私たちが見学体感できるというという貴重な建築物となっています。








【掛川城天守.7】
2階から塔屋1階へ上がる階段。
メジャーを持っていなかったので手尺で測りましたが、踏面230mm、蹴上280mm、有効巾750mm、段数は16で階高は4480mmとなります。
この階段は現存天守を踏襲した急勾配になっています。現存天守である姫路城もこんな勾配でした。建築基準法上では物見台への階段として適用除外になっているようです。非常時の避難の観点から考えれば疑問が残りますが、復元天守には無粋な事は言わない方がいいかとも思います。

【掛川城天守.8】
天守屋根の鯱の原寸大複製品。高さ120cm。元掛川城玄関下御門だった袋井市の油山寺の山門の鯱を参考に、複製されたとのことです。

【掛川城天守.9】
塔屋1階から塔屋2階へ上がる階段。
踏面230mm、蹴上280mm、有効巾750、段数は10で階高は2800mmとなります。

【掛川城天守.10】
塔屋2階。建具には掛川特産の葛布を貼った襖が用いられ、釘隠しの金物や格天井等の意匠が凝らしてあります。
この階にいらしたボランティア案内人の方によると、使用木材は青森ヒバ、広さは5m四方ということです。

【掛川城天守.11】
南側。塔屋2階より三の丸(左側)、本丸(中央)を望む。手前には霧吹き井戸や天守に登る石段が見えます。

【掛川城天守.12】
東側。塔屋2階より二の丸を望む。中央が二の丸御殿、左側が二の丸美術館です。

【掛川城天守.13】
東側遠景。中央奥の森林は掛川古城、左上の森林は龍尾神社です。
山並みのかなたには微かに富士山が見えます。

【掛川城天守.14】
西側。手前は掛川西高校、その左側には逆川(さかがわ)が流れています。
校歌には「岩根こごしき天守台 その麓にぞわが校は 基定めて逆川の 栄え行くこそ楽しけれ」と、まさにその立地が詠われています。
また案内人の方によると、好天の日には約27km先の浜松駅横のアクトタワー(最高高さ212.77m)が肉眼で見えるとのことです。さすがに浜松城天守は見えないそう、残念。

【掛川城天守.15】
天守台の霧吹き井戸。井戸枠が新しく作り変えられていました。
永禄11年(1568年)徳川家康は掛川城に籠る今川氏真を攻めました。この時、井戸から立ちこめた霧が城を包み隠したという伝説があるそうです。
