掛川城 二の丸御殿 見学
2022年 03月 27日
前回ブログの掛川城天守と同日、二の丸御殿も訪れていましたので紹介したいと思います。
城郭御殿は藩主の公邸であり、藩政を行う役所として、そして藩の公式式典の場として用いられた建物です。現存する城郭御殿としては、掛川城二の丸御殿、二条城二の丸御殿、高知城本丸御殿、川越城本丸御殿、全国で4箇所だけです。それだけに貴重な建築物だと思います。
掛川城二の丸御殿は、謁見の間や執務室、目付・奉行などの役職の部屋など、それぞれ様々な用途に用いられるいくつもの畳敷きの部屋が襖で仕切られており、書院造の木造桟瓦葺き平屋建、延床面積は948㎡です。
御殿は二の丸に建てられる前は本丸にありましたが、老朽化などの理由によりこの二の丸に建て替えられ、現存の御殿は嘉永7年(1854年)に発生した大地震で倒壊後、城主・太田資功によって、安政2年(1855年)から文久元年(1861年)にかけて再建されたものです。
掛川城の廃城後、御殿は勤番所と徳川家兵学校に転用され、さらに廃藩置県後に聚学校として使われました。その後、女学校、掛川町役場、掛川市庁舎、農協、消防署などに転用され、昭和47年(1972年)から1975年(昭和50年)にかけて保存修理が行われ、江戸時代の藩政や武士の生活の様子を今に伝える建物として、1980年(昭和55年)に国の重要文化財に指定されています。

【掛川城 二の丸御殿.1】
御殿南側庭より天守を望む。

石段より式台玄関を望む。玄関はむくり屋根で威厳を示し、破風下には火伏せの蕪懸魚が付けられています。身分制度の厳しい江戸時代では武士階級も同様で、この式台玄関を使用できるのは藩主と城代家老のみで、家老や中級武士は東側の玄関から、下級武士(足軽)は北側の土間から入りました。

南西面外観。


東面外観。中央、柱で仕切られた左側が家老用玄関、右側が中級武士用玄関、右端が来客用玄関。

鳥瞰。天守台より望む。

内部説明図。(掛川城二の丸御殿リーフレットより) ※画像上で左クリックまたはタップで拡大表示できます。
掛川城二の丸御殿は7棟からなる書院造で、部屋はそれぞれの用途に応じ約20部屋に分かれています。
最も重要な対面儀式が行われる書院棟は、主室の御書院上の間と謁見者の控える次の間・三の間からなり、藩主の公邸の小書院棟は、藩主執務室である小書院と、藩主の居間として使われた長囲炉裏の間からなります。
東側は藩政をつかさどる諸役所の建物で、目付・奉行などの役職の部屋、警護の詰所、帳簿付けの賄方、書類の倉庫である御文証・御文庫があります。
小書院棟の北側には勝手台所がありましたが、明治時代に撤去されました。

説明板。

玄関広間。徳川家康公と山内一豊公の甲冑。1月9~10日にかけ二の丸茶室で行われた将棋の王将戦・渡辺明 三冠(名人・王将・棋王)対 藤井聡太 四冠(竜王・王位・叡王・棋聖)の対局がありましたが、スポーツ紙の正月版で王将戦PRのため、両者がこの甲冑を着用し話題になりました。そしてこの掛川での初戦を制した藤井四冠は4連勝で王将位を奪取し、五冠となりました。



手前が三の間、奥が次の間。左側が廊下ですが敷居には溝が無く、建具をはめ込まれることはなく、身分違いの仕切りとして使われていました。

三の間。城主が家老に用向きの場合、この間に家老が通され用件を済まします。用件によっては二の間、次の間に通される場合もあります。
季節柄、つるし雛やつるし飾りなどが展示されています。

次の間。藩主の使う小書院等の柱は、芯去材が用いられ背割りはありません。

次の間。城主と謁見できる身分の高い者だけが通された部屋です。


御書院上の間。城主が藩の政治をつかさどった公的な部屋です。

小書院。藩主が政務を離れてくつろいだ私的な部屋です。

長囲炉裏の間。城主あるいはその奥方が使用した部屋です。
展示されている甲冑は歌手・俳優の杉良太郎さんが寄贈されたもので、1700年代に掛川城主を務めた松平遠江守忠喬と太田摂津守資俊のものということです。
以下、役所棟です。

下級武士用玄関。左側には足軽目付部屋、右側には徒目付部屋です。

徒目付部屋。下級武士を監督した徒目付の部屋です。床は板張り、天井は根太天井です。

吟味奉行部屋。藩内の訴訟や経理関係の吟味をした吟味奉行の部屋です。

大目付部屋。藩内の監察、警備などを主要な任務とした大目付の部屋です。格式が高く畳敷き、竿縁天井です。

大目付部屋から中庭を望む。

御用人部屋。藩の財政や庶務万端を取り扱う用人が使用した部屋。大目付部屋同様、畳敷きですが竿縁天井はさらに高く、地位がさらに上なのを示しています。

御談の間。藩に用事のある者の用件の取次ぎや談合、会議などの際に使用した部屋。
以下、全国で4箇所現存する御殿のうち、現地見学をしました二条城二の丸御殿と川越城本丸御殿です。

二条城は慶長8年(1603年)徳川家康の命により京都所司代・板倉勝重が築きました。
二の丸御殿は東大手門の西側にあり、築地塀に囲まれていてます。二の丸御殿は建物面積約3,300㎡で、主要な建物6棟からなり、部屋は33室・畳は約800畳敷の武家風書院造の建物です。

川越城は、長禄元年(1457年)に、上杉持朝の命により、家臣の太田道真・道灌親子が築きました。
江戸時代には江戸の北の守りとして重要視され、代々幕府の重臣が城主となっていました。現存する建物は嘉永元年(1848年)に建てられたもので、本丸御殿の一部として玄関・大広間・家老詰所が残り、川越藩17万石の風格を偲ばせています。








