千手の前と朝顔

 前回の記事で熊野御前(ゆやごぜん)を紹介させていただきましたので、今回も磐田市に所縁があり、熊野御前と同時期の平安時代末期、平家と源氏の間で翻弄され短い生涯を終えながらも、名を遺した千手の前(せんじゅのまえ)を追ってみたいと思います。
 
 千手の前は駿河国手越(現・静岡市駿河区手越)の長者の娘として生まれます。千手の母は永らく子供に恵まれず、遠江国千手堂(現・磐田市千手堂)(せんずどう)の千手寺(せんじゅじ)に祀られている千手観音に祈願し、しばらくして女子を授かり、千手(せんじゅ)と名付けます。

 この千手寺のある磐田市千手堂には、私の出身設計事務所の先輩Yさんのご自宅があります。私は磐田市福田の自宅から浜松市中区高林のバク事務所を往復する際には近くを通ることが多く、43年前から現在までYさんの設計事務所やご自宅に伺ったりもしているので、千手堂は馴染み深い町となっています。

 吾妻鏡などの文献では「千手」と書かれている千手の前ですが、こちら磐田市では同じ読みの「千寿」と書かれることが多いようです。本家本元の千手寺には「千寿姫の寺」の案内看板があり、千手の墓である傾城塚には「千寿前の墓」の標柱が立っています。また、磐田市中泉には造り酒屋の千寿酒造株式会社があり、「千寿」という銘柄の吟造酒を製造販売しています。これは千寿(千手)にちなんで付けられた社名であり商品名です。私ごとですが、千寿酒造は昭和57年(1982年)、当時は山下本家という造り酒屋でしたが、磐田市岩井に販売部門の事務所と倉庫を新築されるということで、当時在籍していた出身設計事務所で設計・監理を担当させていただきました。建築工事が始まると、設計事務所は地鎮祭、上棟式、竣工式の神事ごとに奉献酒を持参し供えるのが常ですが、浜松市の出身設計事務所に常備してある奉献酒が違う銘柄だったため、神事のたびに磐田市内の酒店で「千寿」の2本縛りを購入、持参し祭壇に供えたことを思い出します。 

 話を戻しますが、千手は成長するにつれ、美貌で和歌にも通じるようになり、鎌倉の源頼朝の館に迎えられることになります。当時は白拍子の舞(男装した女性の舞)が持てはやされており、千手はその名手として名を馳せます。頼朝が12人の美女を比べたという逸話には「一番に手越の長者が娘の千手の前、二番に遠江の熊野が娘の侍従、三番に黄瀬川の亀鶴・・・」とあるようです。なお、熊野が娘の侍従とは熊野御前のことです。

 寿永3年(1184年)2月、平家軍は一ノ谷の戦いで源範頼(のりより)と義経の率いる源氏軍に敗れ、捕虜となった平清盛の五男・重衡(しげひら)は鎌倉へ護送されることになります。重衡は梶原景時によって護送される途次、池田で一夜の宿をとります。その頃、熊野は母親が病との知らせを受け、京の平宗盛の元から池田に戻っており、宗盛の弟である重衡に慰めの歌を送り、重衡は諦めの心境を歌で返したと伝えられています。なお、範頼は義朝と池田宿の遊女の間に生まれ、頼朝とは異母弟にあたり、蒲御厨(かばみくりや)(現・浜松市東区蒲地区・和田地区から南区飯田地区の一帯)で生まれ育ったため、蒲殿または蒲冠者と呼ばれていました。

 鎌倉に護送された重衡ですが、頼朝は重衡の堂々とした態度が気に入り、虜囚ながら手厚くもてなします。鎌倉の御所内で宴を開き、工藤佑経が鼓を打ち、千手の前が琵琶を奏で、重衡が横笛を吹いたそうです。そのような経緯もあり頼朝は、千手の前に重衡の世話を命じます。優しく接する千手の前は、重衡にとってかけがえのない存在になっていったと思われます。

 元歴2年(1185年)3月、平家が壇ノ浦で全滅すると、南都の衆徒たちから重衡の身柄引渡しを求める強い要請が届きます。それは平家に衰運のきざしが見えはじめた頃、反平家の拠点となった南都を抑えるために、清盛が重衡を総大将として攻めさせ、東大寺大仏殿、興福寺などの伽藍を全焼させたことによるものです。頼朝はその要請に抗しきれず、重衡の処分を南都の僧に任せます。重衡は鎌倉から奈良に送られ、同年6月に木津川畔で処刑されました。享年29歳でした。

 重衡が処刑されてのち、それを知った千手の前は髪をおろし尼となり、熊野御前を頼って遠江に向かい白拍子村(現・磐田市白拍子)に庵を結び、文治4年(1188年)4月25日、24歳で亡くなるまで重衡の菩提を弔ったという事です。野箱村(現・磐田市野箱)にある傾城塚は千手の墓と伝えられています。なお、白拍子の地名は千手の前が住んだことにより、後に付けられたものだと推定されます。重衡とのことは「平家物語」「源平盛衰記」「吾妻鏡」などに書かれ、能や浪曲、詩や歌に語り継がれています。

 そして、千手の前と熊野御前の間を取り持ったのは、池田宿の侍女・朝顔だと伝えられています。朝顔は池田から京の都にいる熊野の元へ母親の手紙を届け、迎えに行ったという侍女です。今回調べている中で、朝顔の墓が現存していて磐田市前野の松尾八王子神社付近にあるということが分かりました。さっそく行ってみましたがすぐには見つけられず、車を降り松尾八王子神社南側の農道を歩いて探していると、東に20mほどの水田に囲まれた畑地の一隅に墓石らしきものがポツンと一基あり、近づいてみるとそれが朝顔の墓でした。熊野や千手のような建屋はありませんが、槙の生垣で囲まれ800年余り経った今でも地域の方々に守られているようでした。自宅に戻り地図を俯瞰してみますと、朝顔の墓は熊野の墓のある行興寺と千手の墓のある傾城塚を結ぶ線上にあり、没後なお、二人の間を取り持っているのかと、そんな想いに馳せられました。



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【千手寺.1】
本堂。



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【千手寺.2】
案内看板。



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【千手寺.3】
慈眼山千手禅寺の山門。



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【千手寺.4】
六地蔵。六地蔵は我々の生きる世界、そして死後の世界、どの世界においても人々を守護してくださる存在として祀られています。




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【千手の墓.1】
前面道路から傾城塚への通路。右側舗装部分が駐車場(6台程度)です。
磐田市野箱と白拍子の境に位置しています。



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【千手の墓.2】
標柱には「千寿前の墓」、説明板には「千寿の前の廟」と記されています。



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【千手の墓.3】
傾城塚。磐田市誌には「この塚は寛文4年(1664年)に雷火により焼失し、その8年後に白拍子(千手)の供養のため、戒名と「白拍子之古廟」を意味する碑文を刻んだ石碑が建立された」とあります。
この日は廟や周囲は綺麗に掃除され墓花が供えられていました。命日である4月25日前後には千寿顕彰会の皆さんなどにより、千寿供養祭が行われているということです。




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【朝顔の墓.1】
朝顔の墓の西側にある松尾八王子神社。その西方約8km先には浜松駅前のアクトタワー(高さ212.77m)が見えます。(赤丸囲み)



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【朝顔の墓.2】
水田に囲まれた畑地の一隅に朝顔の小さな墓がありました。一基だけなので寂しい感じですが、槇の生垣に囲まれた墓は、この遠州地方特有の冬の強い風「遠州のからっ風」から守られているようでした。



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【朝顔の墓.3】
墓石には朝顔の碑文が読み取れます。
なお、朝顔の墓は熊野の墓のある行興寺にあるという説もありますが、磐田市文化財課の資料ではこちら磐田市前野の墓が朝顔の墓だと記載されています。




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【案内図】
池田の熊野の墓(行興寺)、野箱の千手の墓(傾城塚)、前野の朝顔の墓、千手堂の千手寺の位置関係です。



by team_baku | 2022-05-01 20:00 | 所感・雑感 | Trackback

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