大同年間(806~810年)、藤原鎌足の孫・藤原北家の越後守静並が伊勢神宮の信託を受け、この蒲の地を開拓し美田550町歩を神宮に寄進し蒲御厨となし、神明宮を創設したとされています。以来、静並の子孫が神官と御厨の支配者を兼任し蒲氏を名乗りました。神官の屋敷のあった場所は現在、大蒲町となっています。
蒲神明宮は蒲御厨の北西の端、現在の浜松市東区神立町、西遠女子学園の北側に位置し、袖紫ヶ森に鎮座しています。そして鎌田御厨の
鎌田神明宮(磐田市鎌田)、都田御厨の須倍神社(浜松市北区都田)と共に遠州三神明宮の一つに数えられています。訪れた日の袖紫ヶ森は新緑が萌え、すぐ北側には車両の交通量が多い柳通りがあるのにも関わらず騒音は樹木で遮られ、浜松の街中とは思えない静寂感に包まれていました。
境内は伊勢神宮に倣い内宮と外宮が設けられ、20年に一度の式年遷宮を継続しています。 2年前の式年遷宮では、外宮やその鳥居や板塀を新しくされたとのことです。境内は南北に長く、その南から東海道(現・国道152号)まで約600mの参道が残っています。この参道を取り巻く環境はかなり変わりましたが、3間(5.4m)の道幅や道なりは当時のままということで、往時を偲びつつ歩いてみました。また、境内の袖紫ヶ森を抜けた北西には船越公園があり、馬込川が天竜川(小天竜)だった時代には川幅も現在より広く、蒲神明宮付近が東側の渡舟場で、対岸にある村が西側の渡舟場を担い、今でも船越町の地名を残しています。
蒲御厨の蒲家別邸(現・龍泉寺 浜松市南区飯田町)で育てられ、蒲殿(かばどの)又は蒲冠者(かばのかじゃ)と呼ばれた源範頼ですが、治承4年(1180年)、兄・頼朝挙兵の報を聞き鎌倉に向かいます。範頼は鎌倉にいる頼朝の代りに大将をつとめ、多くの鎌倉武士を従え、義経と共に平家討伐に向かいます。これらの武将の統制や遠征先での物資の調達に苦労しましたが、最終的には平家を滅ぼすまでの戦功をあげています。先陣を切り目覚ましく活躍する義経と違い、範頼は後陣にいる大将であったため、後世には伝わりにくい人物となったように思います。
元暦2年(1185年)以降、義経は頼朝と対立し追捕の対象となり、奥州藤原氏の元に落ち延びます。しかし庇護してくれた藤原秀衡が亡くなると、跡を継いだ嫡男・藤原泰衡は義経を許さない頼朝の意を汲み、義経の館を攻め自刃に追い込みます。一方、範頼は建久4年(1193年)富士の巻狩りの際、曽我兄弟の仇討ちが起こり、それに紛れ頼朝が討たれたとの虚報が鎌倉に届きます。その虚報への対応を巡る範頼の発言が曲解され、頼朝から謀反の嫌疑を掛けられ、伊豆の修禅寺に幽閉され殺害あるいは自害したと伝えられています。そして享徳3年(1254年)若かりし範頼が過ごした蒲家別邸跡地に、範頼の菩提を弔うため龍泉寺が創建されます。その後、江戸時代には源氏の旧跡を顕彰するため、徳川将軍家が供養塔(五輪塔)を建立しました。
範頼の伝承は各地にあり、武蔵国石戸宿(現・埼玉県北本市石戸)には、範頼が約800年前に植えた蒲桜(カバザクラ)が現存し、日本五大桜として天然記念物となっています。近年になり、蒲神明宮や龍泉寺を始め、浜松市東区内に北本市から蒲桜の子孫の苗が贈られ植樹されました。 石薬師(現三重県鈴鹿市)にも蒲桜(ガマサクラ)と呼ばれる範頼ゆかりの桜があります。これは平家討伐に向かう途中、範頼が石薬師に詣でて桜の枝を地面に突き刺し根付いたもので、この地では範頼の尊称を、蒲冠者(がまのかじゃ)と伝えているとのことです。
【蒲神明宮.1】二の鳥居をくぐると奥には拝殿が、左側には手水舎、右側には厳島神社の鳥居が見えます。
【蒲御厨.1】 ※地図上でクリックまたはタップで拡大表示できます。明治23年(1890年)当時の蒲神明宮周辺の地図です。この当時はまだ江戸時代の名残があり、村ごとに集落が形成されているのが分かります。
赤色で囲われた部分は蒲神明宮(中央)と龍泉寺(右下)、緑線は東海道、紫線は蒲神明宮の参道です。
現在の蒲神明宮周辺の地図。市街化が進みましたが、参道の道なりは変わっていないのが分かります。
【蒲神明宮.2】参道入り口の一ノ鳥居。銅板を巻き保護されています。
手前が東海道(現・国道152号)です。
【蒲神明宮.3】鳥居の東側脚元には「国史現存 蒲大神」の石碑、「明治廿七年」(1894年)と刻まれています。また両側には「奉献常夜灯」「氏子安全」「天保十三年」(1843年)と刻まれた常夜灯支持柱があります。少し離れたところには「ごしん表参道」の標柱が建っています。地元では蒲神明宮は「ごしん様」と呼ばれ親しまれているとのことです。
【蒲神明宮.4】一ノ鳥居から200mほど北にある六間道路の交差点です。当初は呼び名通りの六間(10.9m)の幅員でしたが、現在では22mに拡幅されています。
参道は江戸時代から変わらず三間(5.4m)の幅員とのことです。
【蒲神明宮.5】蒲神明宮の西側に位置する蒲幼稚園の案内板ですが、園児に合わせてか、動物のカバがイメージされているようです。
【蒲神明宮.6】左側は西遠女子学園の校舎です。道なりに直進します。
【蒲神明宮.7】一ノ鳥居から500mほど来たところです。二ノ鳥居が見えてきました。左側は浜松市消防団第14分団詰所です。
【蒲神明宮.8】袖紫の森。左側に見えるのが蒲幼稚園です。
【蒲神明宮.9】二ノ鳥居。ここからが蒲神明宮の境内になります。
境内入口の二ノ鳥居両脇の石灯籠は天保4年(1833年)に建立され、台座には神立村、将監村、丸塚村、西塚村、植松村、大蒲村、宮竹村、原島村、篠瀬村、薬師村、飯田村、西伝寺村など39の村名が刻まれ、蒲御厨の範囲が示されています。
【蒲神明宮.10】埼玉県北本市から石戸の蒲桜の子孫の苗木が贈られ植樹された蒲桜。
【蒲神明宮.11】蒲桜の説明板。日本五大桜の中に石戸の蒲桜が入るようですが、富士宮市の狩宿の下馬桜も入るのですね。蒲桜は範頼ゆかり、下馬桜は頼朝ゆかり、五大桜に兄弟の名が連なるとは驚きです。
【蒲神明宮.12】手水舎
【蒲神明宮.13】拝殿。神明造で屋根は銅板葺、千木は先端を水平に切った内削ぎで鰹木は6本の偶数、祀神・天照大御神である伊勢神宮の内宮に倣っています。ちなみに鎌田神明宮の祀神は豊受比賣神なので伊勢神宮の外宮に倣い、千木の先端を垂直に切った外削ぎで鰹木は5本の奇数です。
【蒲神明宮.14】外宮鳥居。令和2年(2020年)に20年に一度の式年遷宮が行われ、外宮本殿を新築し、伊勢神宮から譲り受けた鳥居を建立したとのことです。板塀に囲まれ一般には参拝できないようです。

【蒲神明宮.15】
外宮本殿。板塀越に僅かに見えます。祀神は豊受比賣神。
【蒲神明宮.16】内宮本殿。こちらも板塀越に僅かに見えます。祀神は天照大御神。
【蒲神明宮.17】厳島神社。赤い太鼓橋を渡ります。池は瀬戸内海をイメージしているのでしょうか。
【龍泉寺.1】正面入り口。曹洞宗 稲荷山龍泉寺。右側が墓地ですが、さらに右側の公道を挟んだ墓地に源範頼供養塔があります。
【龍泉寺.2】山門。
【龍泉寺.3】本堂。
【龍泉寺.4】約3年前に再建された源範頼の五輪塔「源範頼公供養塔」と刻まれています。右側は墓石の形から歴代住職のものだと思われます。37世まであり没後も範頼に寄り添う配置のようです。
【龍泉寺.5】 ※画像:浜松市観光課Webサイトより。
江戸時代、徳川将軍家により建立されたとされる「蒲御曹司源範頼公碑」五輪塔。高さが2mあったそうですが、こちらは現存しません。
【龍泉寺.6】北本市の石戸の蒲桜の子孫の苗木が贈られ植樹された蒲桜。この他、三重県の石薬師寺からも蒲桜の子孫の苗木が贈られ植樹されました。
【駒塚.1】駒塚。範頼の愛馬を弔った塚と伝えられています。龍泉寺の南50mほどのところにあります。
【駒塚.2】「爲範頼公愛馬供養塔」の碑。
修善寺に幽閉され殺害あるいは自害したとされる範頼ですが、その際、愛馬が範頼の首をくわえ、範頼の別荘のあった竜泉寺まで走り続け、池の周りを3回周って倒れたと伝えられています。駒塚は馬頭観音菩薩像に見守られ、周囲の植栽はきれいに剪定され掃き浄められていました。真意の程は別にして、範頼公のことを伝承し、地元の皆さんにより長い間守り続けられていることに意味があるのだと感じました。
【龍泉寺.7】意外な物を見つけました。龍泉寺本堂の前庭西側、葉が生い茂って後ろの説明板が見えにくいのですが、以下のように書かれていました。
《ニュートンのリンゴの木
英国の物理学者アイザック・ニュートンによる「万有引力の法則」発見から300周年を記念し、1965年に英国から東京大学附属植物園にニュートンの生家のリンゴの木が贈られた。これを母木とする苗木が1986年に浜松科学館に植えられ、さらにその枝を接ぎ木して育てられた苗木が、静岡大学教育学部附属浜松中学校第11回(1959年度)同窓会50周年記念事業として、卒業生の手により母校と当地に植樹された。》
とのことです。こちらは紛れもない事実のようです。