医王寺の紫陽花

 梅雨の合間の日曜午後、少し時間がとれたので友人K君を誘い、磐田市鎌田の医王寺に行ってみました。この時期に行ったのは、境内にたくさんの紫陽花が咲いていると話を聴いていたことにもよります。たまに医王寺の東側の道を通ることはあるのですが、境内に入るのは初めてのことでした。

 駐車場に着きますと、まず目についたのは丸石積みの石垣でした。これは丸石をそのまま積み上げる野面積みの工法で、以前紹介させていただいた見付学校の石積みと同じです。見付学校の石積みは天竜川河口の比較的大きめの丸石を使った物でしたが、医王寺の石積みは小さな丸石です。これは百姓積みとも言われ、江戸時代初期、鎌田周辺の農民が田畑を開墾する際に出てきた石を土留めに使ったことからそう呼ばれているようです。東側には太田川が流れているので、その水系で形成された丸石ではないかと思われます。

 医王寺は奈良時代の天平6年(734年)聖武天皇の勅命を奉じて訪れた日本で最初の大僧正・行基を開祖としています。平安時代の弘仁年間(810~822年)には七堂伽藍が整い真言密教の根本道場となりました。しかし戦国時代の元亀3年(1572年)、武田信玄軍の西上作戦の途上、兵火にかかり寺塔ことごとく灰燼に帰しました。

 その後、天正12年(1584年)徳川家康の援助により再興を図ります。当時の医王寺は鎌田薬師と呼ばれ、以前のブログでも紹介させていただきましたが、東海道から鎌田薬師に向かう交差点には、現在も石造りの道標が残っています。

 境内は8,000坪(26,446㎡)にも及ぶ広大な面積で、手入れされた樹木が生い茂り、今日は紫陽花が咲き揃いこの時期だけの華やかさを醸し出していました。
そして本堂の南から西側にかけて小堀遠州作と言われる300坪(990㎡)の枯山水庭園があり、新緑の季節も相まって見応えのある庭園でした。

 その後、医王寺近くの源義朝ゆかりの鎌田兵衛の供養塔に向かう矢先、スマホに石川県能登地方に震度6弱の地震発生の速報が入りました。自宅に戻った後もネットやテレビなどで情報を得ていましたが、地元の方々は大きな地震に動揺されたことだと思います。また余震も心配され落ち着かない状況かと思いますが、大きな被害が出ないことを願ってます。



医王寺の紫陽花_c0376508_19491372.jpg
【医王寺.1】
正面入り口。


医王寺の紫陽花_c0376508_19492020.jpg
【医王寺.2】
南側の石垣。道路側は比較的大きな丸石が用いられた石垣になっています。



医王寺の紫陽花_c0376508_19492465.jpg
【医王寺.3】
東側。この道の先に見えるのはJR東海道本線 御厨駅です。この道は御厨駅が令和2年3月に開業するのに合わせ拡幅されましたが、それまでは幅員6m程度の道でした。それはちょうど現在の歩道部分くらいですが、医王寺側は拡幅により削られることなく残され、丸石垣も守られました。



医王寺の紫陽花_c0376508_19493385.jpg
【医王寺.4】
正面入り口駐車場から北側に向かう通路。右側には六地蔵が安置され、左側には白い紫陽花が咲き誇っていました。


医王寺の紫陽花_c0376508_19494670.jpg
【医王寺.5】
駐車場から東側、薬師堂に向かう通路。



医王寺の紫陽花_c0376508_19500606.jpg
【医王寺.6】
薬師堂。昭和22年(1947年)浜松市和地山の養源院の本堂を移築したもの。



医王寺の紫陽花_c0376508_19503962.jpg
【医王寺.7】
大師堂。


医王寺の紫陽花_c0376508_19495081.jpg
【医王寺.8】
境内の南東側に建てられていた坊中(ぼうじゅう)学校の説明板。
明治5年(1972年)学制が発布されると、医王寺住職・伊藤淳岳師は翌年、寺の本堂に坊中学校の前身、第44区郷学所を開きます。
当時、同じ磐田の見付学校は地元有力者多数の寄付によって新校舎が建てられましたが、驚くべきことに坊中学校の新校舎は、伊藤淳岳師の意思を継いだ次の住職・村松淳高師一個人の私財により建てられ、明治8年(1875年)4月12日から供用開始されたということです。



医王寺の紫陽花_c0376508_19505682.jpg
【医王寺.9】
坊中学校跡地。現在は遊具が設置され児童公園になっていますが大きな楠が印象的です。



医王寺の紫陽花_c0376508_19511008.jpg
【医王寺.10】
境内の東側には薬師堂や大師堂、児童公園(坊中学校跡地)に繋がる植生豊かな周回路が繋がり、紫陽花がちょうど見頃です。


医王寺の紫陽花_c0376508_19511838.jpg
【医王寺.11】



医王寺の紫陽花_c0376508_19513147.jpg
【医王寺.12】



医王寺の紫陽花_c0376508_19512889.jpg
【医王寺.13】



医王寺の紫陽花_c0376508_19513529.jpg
【医王寺.14】
額が鮮やかな赤紫に色づいている中、二輪ほど花が開いています。



医王寺の紫陽花_c0376508_19513990.jpg
【医王寺.15】
本堂への参道。石畳みの両側は杉苔が繁茂しています。まるで京都のお寺に彷徨い込んだ雰囲気です。


医王寺の紫陽花_c0376508_19514323.jpg
【医王寺.16】
90°曲がった先の本堂への参道。山門が見えてきます。山門前の階段は駕籠が横向きに上がるよう傾斜が緩く造られています。


医王寺の紫陽花_c0376508_19515125.jpg
【医王寺.17】
山門。弘化4年(1847年)建立。重厚な四脚門で総けやき造り。扉はけやきの一枚板とのこと。


医王寺の紫陽花_c0376508_19515499.jpg
【医王寺.18】
庫裏。それまでの庫裏は安政の大地震で壊滅的な被害を受けたため安政5年(1857年)に再建され、昭和61年(1986年)には屋根は耐震上軽量化を図るため本瓦から銅板に葺き替えられました。
庫裏の手前左側に置かれているのは、瓦屋根当時の鬼瓦で高さ140cm、幅203cmもあります。

 この庫裏では、幕末から大正時代に掛けては周辺の村人たちによる食事当番制度があり、土間にある釜戸を使い大勢の食事をまとめて作り、出来上がると半鐘を鳴らし村人が集まり、揃って食事をしていたそうです。
 また、土間には浴場もあり、村人は曜日を決め入浴していたそうです。医王寺は周囲の土地より若干高く、そのため村人たちは医王寺に向かう道を風呂坂と呼んでいたとのことです。


医王寺の紫陽花_c0376508_19523261.jpg
【医王寺.19】
本堂。客殿とも呼ばれ、正徳4年(1714年)建立。
本堂の南側から西側に掛け枯山水庭園が広がっています。医王寺の中心となる建物で、大日如来が安置され、松平伊豆守信綱により寄進された薬師如来立像や日光・月光菩薩像も安置されています。



医王寺の紫陽花_c0376508_19522383.jpg

【医王寺.20】
枯山水庭園 南側。
江戸時代初期の元和年間(1620年頃)造園。小堀遠州の作と言われ、植栽はサツキ、ツツジを中心に石組みが配され、手前は一面の杉苔に覆われています。



医王寺の紫陽花_c0376508_19520705.jpg
【医王寺.21】
枯山水庭園 南西側。



医王寺の紫陽花_c0376508_19521276.jpg
【医王寺.22】
枯山水庭園 西側。


医王寺の紫陽花_c0376508_19522634.jpg
【医王寺.23】
本堂内の廊下に吊り下げられている大名駕籠。


医王寺の紫陽花_c0376508_19525556.jpg
【鎌田兵衛の供養塔】
医王寺から南東に300mほどに位置します。鎌田地区は御厨駅の開業に伴い、広い道路が通ったり区画整理が完成しつつありますが、この地は旧家並みを残しつつある道を進み、畑の間を進んだ場所にありました。

 鎌田兵衛は源頼朝の父・義朝に従った武将で平治の乱に敗れ、東国に落ち延びる際、尾張(知多半島の美浜町野田)で義朝と共に殺害されました。のちに家臣により、出身地である鎌田に供養塔が建立されました。
 この地を見学している際、現在放送されているNHK大河ドラマ・鎌倉殿の13人の所縁の地を巡るパンフレットを手にされている方と出会いました。現在は静岡県西部を中心に巡られているそうで、私たちも行った所縁の地などを中心によもやま話をすることが出来ました。
なお、建屋の左下、場違い感のあるのは「しっぺい」という磐田市のマスコットキャラクターのパネルです。




by team_baku | 2022-06-19 21:50 | 所感・雑感 | Trackback

建築現場監理の内容や、建築見学の感想、日々の思いなどを綴らせていただいています。


by TEAM BAKU-tk
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30