昨日は現在設計中の、浜松市南区西島町の事務所・検査分析ビル建築予定地に行ってきました。現地へは弊社代表は浜松市中区高林の事務所から、私は磐田市福田の自宅からそれぞれ向い、現地で落ち合い、構造計算に必要な地盤データを得るための、ボーリング調査の位置出しを行いました。建築予定地は遠州灘海岸から1kmほどの距離で、砂地が予想される地質です。建物は3階建で9.90mの高さですので、完成すれば屋上から、遠州灘や海岸防潮堤が望めるようになると思います。最近、ブログで工事の様子をご紹介出来ていないので、お施主様の了承が得られるようでしたら、適宜、この工事現場の様子をお伝え出来たらと思っています。
その西島町の現場の帰りに、竜洋海洋公園工区の海岸防潮堤に寄ってみました。場所は天竜川河口左岸(東側)に当たるのですが、現地に着いてみますと、こちらも東の海岸防災林工区と同様、多数の10tダンプが土砂を運び、ブルドーザーが土砂を均し、完成を急いでいる様子が見て取れました。
この竜洋海洋公園工区には文字通り、防潮堤の内陸側には竜洋海洋公園があり、その東側には地場産品売り場や入浴施設、オートキャンプ場、コテージなどがあります。昨日は時間の都合もあり、海洋公園等の写真撮影ができなかったので、近いうちに紹介させていただきたいと思っています。
今回は防潮堤付近に建つ「掛塚灯台」を紹介したいと思います。私の小さい頃は「こまんばの灯台」と呼ばれ、慣れ親しんだ灯台でしたが、これは「駒場の灯台」からの俗称であることを後年知りました。
一般的には「掛塚灯台」と呼ばれていますが、歴史は古く、幕臣であった荒井信敬が明治13年(1880年)に建てたのが始まりです。荒井信敬は幕末、幕臣として榎本武揚が率いる幕府艦隊の西洋式帆船に乗り蝦夷地へ向かいます。しかし銚子沖で乗っていた帆船・美香保丸が座礁し難破、多数の水死者が出る中、運良く助かり生還したという人物です。明治維新後は浅羽村(現・袋井市浅羽)に移住し茶畑を開墾、その後、駒場村(現・磐田市駒場)へ移り開墾に精を出すかたわら、天竜川河口近くにおいて数多くの船が難破・座礁するのに心を痛め、私財を投じて高さ約7mの木造高灯籠式灯台を建て「改心灯台」と名付けます。これは自身の実体験に鑑み、灯台を建てたであろうことが推測されます。ちなみに静岡県内では、神子元島灯台、御前崎灯台に次いで古い灯台です。
そして明治30年(1897年)には、官営により基壇が鉄筋コンクリート造、上部が鉄骨造の円筒状の灯台が完成します。その灯台は長きに渡り稼働していましたが、海岸浸食と地震による倒壊が危ぶまれるため、平成14年(2002年)に約1km西の竜洋海洋公園南側へそのままの形で移設され、新たに役目を果たしています。
【天竜川河口左岸付近.1】 ※Google mapより
竜洋海洋公園と海岸防潮堤。
【天竜川河口左岸付近.2】天竜川河口右岸(浜松市側)を望む。
【旧防潮堤.1】旧防潮堤「竜洋海岸駒馬堤防」の竣工銘板。表面には緑青が吹いていますので銅合金鋳物と思われますが、「竣功 自昭和37年12月 至昭和43年3月」と鋳出し文字で表記されています。銘板は俊功の文字になっていますが、現在では竣工で統一されています。
【旧防潮堤.2】遠州灘を望む。
【旧防潮堤.3】旧防潮堤の高さは海抜6.2mとのこと。
【周辺施設案内板】竜洋海洋公園と周辺施設の案内板ですが、津波避難施設の位置案内や津波警報のサイレンの種類の説明書きがあります。
【竜洋海洋公園工区防潮堤.1】防潮堤海側から天竜川方向(西)を望む。
【竜洋海洋公園工区防潮堤.2】防潮堤海側から竜洋海洋公園側を望む。
【竜洋海洋公園工区防潮堤.3】防潮堤内陸側のしおさい湖から防潮堤を望む。
【竜洋海洋公園工区防潮堤.4】防潮堤内陸側のしおさい湖橋上から防潮堤を望む。
【竜洋海洋公園.1】しおさい湖ボート乗り場。
【掛塚灯台.1】塔高16m。遠州灘の荒波を考慮して基壇下部から高さ5.1mの位置に出入口が設けられ、鉄製の梯子を登って塔内に入る構造で、これは移設後もそのまま残されました。
【掛塚灯台.2】掛塚灯台の碑。荒井信敬の業績が称えられています。
以下、浜松市南区西島町の事務所・検査分析ビル建築予定地です。
【浜松市南区西島町の現場.1】既存建物を解体中です。
【浜松市南区西島町の現場.2】東側には浜松市立南の星小学校が見えます。