『舞いあがれ!』と『鳥人 幸吉』
2022年 10月 22日
数年前からNHK連続テレビ小説、いわゆる『朝ドラ』をよく見るようになったのですが、改編期の10月から新朝ドラ『舞いあがれ!』が始まりました。
物語の舞台は長崎県五島列島と大阪府東大阪市です。五島列島編では、主人公・舞と祖母や島の人々との心温まるふれあいにホッコリし、東大阪編では、私は学生時代の4年間、東大阪市内に住んでいたこともあり、古本屋や食堂のある商店街、近鉄電車が走る街の風景、生駒山上遊園地から東大坂の眺望など、懐かしく思い出しながら見ています。
今週は小学3年生の舞ちゃんが、家業のネジ工場が不振で苦境に立つお父ちゃんを励ますため、模型飛行機を試行錯誤しながらもなんとか作り上げ、見事に飛ばすことが出来たという話でしたが、私も小学生の頃、模型飛行機を数機作りましたので興味深く見ました。そして来週の予告では、10年が経ち、大学1回生に成長した舞が人力飛行機サークルに入り、鳥人間コンテストに挑戦することとなるようで、今後のドラマの展開が楽しみです。
鳥人間といえば、江戸時代に日本で初めて飛行機を自作し空を飛んだ浮田幸吉、通称・鳥人 幸吉をご存じでしょうか。余談ですが遠州地方では「飛ぶ」は「走る」ことも意味します。
話を戻しますが、その浮田幸吉は宝暦7年(1757年)備前国児島郡八浜(現・岡山県玉野市八浜)の旅籠・櫻屋の次男として生まれます。7歳の時に父を失い、親戚の傘屋に預けられます。その後岡山の紙屋へ奉公に出て表具を習いますが、空を飛ぶことに興味を持つようになります。人はどうすれば空を飛ぶことが出来るのか、仕事のかたわら研究をしていたということです。そして鳥の羽の大きさと体重の比率を割り出し、人間の体重に相当する大きさの翼を作れば空を飛べるかもしれないと考えます。
そこで幸吉は表具師の技術を生かし、竹を骨組みに和紙と布を貼り、柿渋を塗った翼(翼幅5間≒9.1m、翼弦1間1尺≒2.1m)を作り、天明5年(1785年)岡山の旭川に架かる京橋の欄干から飛び立ち、数十メートル滑空したとも、数メートルで河原に降下したとも伝えられています。しかしこの時代のことですから、河原に夕涼みでいた町民を驚かせ人心を乱したとして、時の藩主・池田治政の命により岡山所払いを言い渡されます。
そのため幸吉は駿河国駿府江川(現・静岡県静岡市葵区追手町)に移り住みます。駿府では木綿を扱う店を開き、店が安定すると義歯を作ることを始め、技術の確かさで評判になったそうです。しかし50歳になった幸吉は空を飛ぶことを諦めきれず、今度は安倍川の河原で空を飛び、駿府所払いとなってしまいます。
その後、遠江国見付(現・静岡県磐田市見付)に移ります。見付では飯屋を始め、妻子を得て平穏な余生を送ったということです。そして弘化4年(1847年)90歳で天寿を全うし、見付の大見寺に葬られました。
それから150年を経た平成9年(1997年)、池田治政の子孫に当たる池田隆政(旧岡山藩主池田家第16代当主)によって、幸吉は岡山所払いが許されることとなりました。そして現在、磐田市見付の大見寺本堂には幸吉が考案した翼のレプリカ(実物の1/2の大きさ)が展示されています。

本堂の天井から吊り下げられいる翼。翼幅2.5間≒4.55mで1/2スケールの創造模型です。
今日午前、友人K君と共にアポなしの訪問でしたが、法事中のご住職に代わり、ご住職の奥様が浮田幸吉の墓の場所の案内や、本堂内に展示されている古絵図の説明をしてくださりました。

1/2の模型ですが翼幅2間半でも室内では大きく感じました。尾翼はまさしく鳥のようです。
翼の下の四角の枠に幸吉は体を水平に通し乗ったようです。

山門。

【大見寺.2】
山門脇の説明板。
大見寺の文化財。「見付端城」「良純法親王供養塔(墓)」「鳥人・幸吉の墓」の概略説明が書かれています。

本堂。
大見寺は浄土宗の寺院で、創建は清和4年(1345年)鎌倉時代まで遡ります。
戦国時代に入り今川氏の支配下では、大見寺とその北側(現・磐田北小学校及び見付交流センター)に見付端城が築かれ遠江支配の拠点となりました。永禄11年(1568年)に徳川家康が三河から遠江に侵攻し、見付端城を拠点に南東1kmの高台(現・磐田城山球場)に新城(城之崎城)の築城に着手します。しかし僅か1年で、家康は駿河を抑えた武田信玄の東からの侵攻に備え、拠点を見付から天竜川西側の浜松に移すこととしたため、見付端城はその役割を終え再び大見寺に戻ります。現在でも境内の周囲には土塁の一部が残り、往時の名残を感じることができます。

大見寺絵図。元禄11年(1696年)当時。
見付本通り(絵図下側)のすぐ南(下)にまで今之浦の湖沼(入り江)が入り込んでいて、見付本通りから北(上)に入ったところに大見寺があり、その北には古城(見付端城)二の丸跡(現・磐田北小学校)があったことを説明してくださりました。

大見寺絵図拡大。
大見寺境内の北西(左上)に御殿跡とありますが、寛永11年(1634年)7月、三代将軍・徳川家光が上洛した際には休息所、「お茶屋御殿」が造られたということです。

【大見寺.6】
浮田幸吉の墓。
今年8月の施餓鬼法要で供えられた卒塔婆が添えてあります。

良純法親王の墓。
法親王は107代後陽成天皇の第8皇子で、万治2年(1659年)頃縁あって見付に在住しました。弟子だった大見寺第11代住職によって供養塔が建てられたということです。

見付本通りから大見寺への案内看板。
大見寺に向かう道は「御殿小路」とも呼ばれていたようです。「東海道見付宿」と刻まれた石碑もあります。

静岡銀行見付支店前歩道に埋め込まれた案内盤。

静岡銀行見付支店の「見付宿問屋場跡」の案内板。

見付郵便局前の歩道。
歩道の植樹桝内に4つの基礎がありますが、ここに「鳥人 幸吉の住居跡」の常夜灯型看板があったはずでしたが無くなっていました。
付近の見付郵便局隣の和菓子屋前に「街並み案内処」の看板があり、お聞きすると数年前の台風で転倒しそのままになっているとのことで、残念な思いでした。

「鳥人 幸吉」コーナー。
静岡県磐田市と岡山県玉野市が鳥人 幸吉を通じて友好都市となって5周年、2020年11月に磐田市情報コーナーの一角に鳥人 幸吉に関する資料を集めたコーナーが設置されました。漫画家・水木しげるの鳥人幸吉の物語もありました。





















by team_baku
| 2022-10-22 16:31
| 所感・雑感
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